新田義貞公首塚(ニッタヨシサダコウクビヅカ)は、群馬県太田市武蔵島町にある花見塚神社にある、新田義貞の首塚とされる墓です。
新田義貞が1338年に、越前・藤島城を攻撃しようとして、灯明寺畷の戦いにて斯波高経や吉見頼隆らと交戦し討死しました。享年38。
その後、近侍の武士が首級を携えて、船田義昌に渡したと言います。
船田義昌
船田義昌(ふなだ-よしまさ)は、新田義貞の執事を務めた武将との事です。
1333年に、鎌倉幕府が臨時徴税するため、黒沼彦四郎と池田親連の2人を新田荘に派遣します。
このとき、新田義貞によって黒沼彦四郎は斬首されましたが、池田親連は船田義昌(舟田義昌)と同族だったため、助命を嘆願し、幽閉に留まったとされています。
その後、新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼすと、執権・北条一門の残党掃討では、北条邦時を発見して処刑するなどの活躍もしました。
1336年、足利尊氏に占領された京都を奪還する戦いにて、船田義昌(船田入道)は、討死したともされます。
ただし、1338年に、新田義貞が灯明寺畷の戦いにて討死すると、新田義貞の首を桃井次郎が密かに故郷に持ち帰り、船田義昌(船田入道)が丁重に供養したという伝説があります。
なお、新田義貞の首は京に送られて晒されたと言うのが一般的です。
その首は、妻・勾当内侍(こうとうのないし)が、晒されていた新田義貞の首を持ち出して、奥嵯峨・滝口寺に葬ったとされています。
ただし、その首を、何者かが盗んだと言う伝承もあるようです。
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船田義昌(船田入道)は、上野に大同寺(群馬県桐生市新里町新川)を建てて菩提を弔いましたが、その寺の名前は、義昌にちなんで、やがて善昌寺と称するようになりました。
現在、群馬県桐生市新里町新川にある善昌寺で、そちらにも、伝新田義貞首塚があります。
なお、弟と推測される船田経政(ふなだ-つねまさ)が、新田家を継いだ新田義宗を補佐しており、1368年に新田義宗が、沼田で討ち死にしたあとは、新田一族の菩提を弔ったともあります。
この船田経政(船田長門守経政)は、沼田に雲谷寺を建てたとされ、新田義宗の墓があるようです。
さて、花見塚神社にある新田義貞の墓の隣には、匂当内侍の墓が並んでいます。
匂当内侍
勾当内侍(こうとうのないし)は、公家・一条行房の娘とも妹とも伝わる世尊寺家一族の女性で、天皇のそばで仕えた女官でした。
新田義貞が京に上ると、匂当内侍の美貌に引かれたことが後醍醐天皇の耳に入り、天皇から恩賞として新田義貞に与えられとされます。
新田義貞が、金ヶ崎城へ入った際にも、匂当内侍はあとを追って北陸に行ったとされます。
父・一条行房も討死し、杣山城にいた際に、新田義貞の死を知ると、落飾して比丘尼になったとされます。
そして、京で獄門にかけられた新田義貞の首級を、奥嵯峨にある往生院に葬り、弔ったと言われています。
その後、勾当内侍は、新田義貞の故郷にきて、菩提を弔ったと伝わるのが、花見塚(柊塚)で、勾当内侍の墓もあると言う事らしいです。
そして、匂当内侍遺愛のつつじが咲くことでも知られていたようで、江戸時代に入ると、館林城主・榊原忠次が「つつじ」を舘林に移植したとあります。
今でも、新田義貞公首塚と匂当内侍の墓がある、花見塚神社でした。
花見塚神社にある新田義貞公首塚への交通アクセス・行き方ですが、木崎駅から徒歩60分となります。
道路が多少細いですが、3台ほどの無料駐車場も整備されています。
トイレは汚いです。
駐車場の場所は、当方のオリジナル地図にて目印してあります。
・新田義貞とは~鎌倉を落とした男【新田義貞挙兵の地】
・勾当内侍の解説【太平記に登場する美女】
・越前・金ヶ崎城「金ヶ崎の戦い」織田信長最大のピンチ?
・後醍醐天皇の負けず嫌いな執念と室町幕府や南北朝時代になった背景
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