横浜市戸塚区上矢部町の伝承「丹後の局・供養塔」「丹後山・神明社」

丹後の局・供養塔

横浜市戸塚区上矢部町には、丹後の局に関する伝承があります。
丹後の局(たんごのつぼね)は、平安時代末期の女性で、比企尼の長女とされます。
主に京におり、朝廷に仕えた女官で、丹後内侍(たんごのないし) とも言います。
母・比企尼は、源頼朝の乳母を務め、伊豆に流された源頼朝を支援もしていました。
丹後局の妹2人は、北条政子が1182年に産んだ、嫡男・源頼家の乳母も務めています。
なお、一般的に、丹後の内侍は、京にて惟宗広言と密かに通じ、島津忠久を生んだとされます。
その後、離縁すると、関東に下り、安達盛長の妻になりました。
子に安達景盛、安達時長、島津忠久、源範頼に嫁いだ娘がいるとされます。

丹後の局・供養塔

丹後の局供養塔は、ガーデン戸塚と言う駐車場ビルの裏側(西側)の、坂道途中にあります。

丹後の局・供養塔

場所は、当方のオリジナル地図でも、ポイトンさせて頂いております。

戸塚における丹後の局の伝承は下記の通りです。

北条政子に鎌倉を追われた、身重の丹後局は、上矢部(神奈川県横浜市戸塚区上矢部町)で産気づき、狐火を頼りに、男子を出産したとあります。
日が暮れたため、民家に一夜の宿を請うも、相手にしてくれず、伊勢の宮にて休んだと言います。
すると、産気づき、闇夜にいくつもの狐火が、灯って、周囲が明るくなり、難なく男子を出産したとされます。
丹後山・神明社にて、源頼朝の愛人・丹後局が、出産したとの伝承が残されている次第です。
翌日、赤子の声が聞こえため、村人が事情を聴くと、源頼朝の愛妾・丹後の局であることがわかり、見晴らしの良い場所に、家屋を建てて、住まわせたと言う事になっています。
丹後局の墓と伝わる塚があり、現在は、丹後の局供養塔となっています。

丹後山・神明社

また、出産したと言う、伊勢宮(丹後山・神明社)は、丹後山の北側、オーケーストアの裏側にあります。

丹後山・神明社

下記、用水路のフェンスが開いているところが、入口で、鳥居から、少し階段を上ります。

丹後山・神明社

階段を登りきると、民家の裏側と言う感じである、山の中腹にある小さな郭に、そんなに大きくない、社が1つ建っていました。

丹後山・神明社

場所は、同じく、当方のオリジナル地図でも、ポイトンさせて頂いております。

伝承を検証

戸塚に伝わる伝承を、検証してみますと、丹後局は、基本的に、この戸塚で生涯を終えたと言うような話になっています。
となると、領主の許可なくして、長く、住むことはできないでしょう。
まして、産んだ子が、源頼朝のご落胤だとすると、北条政子の抵抗も考えられるため、なおさら、領主の保護が無いと、難しいです。
鎌倉から、そんなに離れてもいないですしね。



と言う事で、誰が戸塚を領していたかとなりますと、この武蔵・谷部郷(矢部郷)は、三浦一族である津久井義行の子・矢部為行(谷部太郎、矢部庄司為行)だと推測できます。
ただし、三浦半島にも相模・矢部郷がありまして、両方とも、矢部為行が領主だったともされます。
また、どちらが、矢部為行の本拠地なのか?と申しますと、戸塚の矢部郷のほうが、本貫だったともあります。
もちろん、諸説あり、100%正しいとは、すべてにおいて、言えません。
特に、平安時代や鎌倉時代は、所領の規模も小さく、境界線も、明確に、区切られていた訳ではですし、更には、丹後局が、いつ、矢部に赴いたのかも、不明なため、年代的な部分もわかりませんので、確証は得られません。

いずれにせよ、伝承の通り、身籠の女性が、ココに来たのであれば、頼るあてもなく、鎌倉から、たまたま、脱出したとは考えにくいです。
武将でも女性でも、逃げる際には、だいたい、縁があるところを、目指します。
もちろん、妾と言えども、源頼朝の妾であれば、少なくとも、数名の侍女も同行していたことでしょう。
しかし、目的地に行く途中で、出産したとしても、その後も、戸塚に留まったと言う事になっているため、そもそも、矢部郷の領主(三浦氏)と、なんらかの縁があったので、頼って、定住したと考えるのが妥当なところです。
頼れる相手がいなければ、前述したとおり、ここで出産したとしても、その後、もっと、鎌倉から遠いところに行ったはずですし、保護が無いと、毎日の食事も、ままなりません。



なお、戸塚で生まれた男子が、源頼朝のご落胤・島津忠久だったとする場合、島津忠久の初見は、1179年になります。
となると、源頼朝が1180年に挙兵するよりも、だいぶ前に、丹後局が産んだと言う事になります。
その頃の戸塚・矢部郷は、もしかしたら、山内首藤氏の領地だったかも?知れません。
山内首藤経俊の母・山内尼も、尾張・熱田にて、源頼朝の乳母を務めています。
しかし、1179年で初見の島津忠久が、仮にこの時点で15歳だったとした場合、1164年頃の生まれとなります。
北条政子と源頼朝が結ばれたのは、1177年頃と推測されますので、八重姫からでも、10年くらい前の話になってします。
と言う事で、ご落胤が、島津忠久の場合、少し、年代があわないと言えます。
もちろん、島津忠久とは限らないなど、様々な理由も考えられますので、なんとも言えないところではあります。
また、鎌倉幕府を開いた源頼朝は、1186年6月10日に、病になった丹後内侍を、鎌倉の安達盛長の屋敷へ、見舞いに訪れています。
すなわち、この時点で、少なくとも、丹後の局は、鎌倉にいたと考えられ、矢部郷にいたとは考えにくい状態と言えます。

となりますと、戸塚の丹後局の伝説の場合、似たいような状況の女性が実際にいて、その話が、語り継がれるうちに、源頼朝のご落胤だと「おもしいよね」と言う事で、丹後局があてはめられたのかな?と感じます。

なお、丹後の局が鎌倉から出たと言う話は、あと、神奈川県だと、愛甲にもあります。
更には、丹後局は、大阪まで逃れたと言う伝承が、一番有名でもある次第です。



丹後内侍に関して、詳しくご存知になりたい方は、誠に恐れ入りますが、下記をご確認頂けますと幸いです。

丹後内侍 丹後局 2人の解説【島津忠久の母】
愛甲三郎館 弓の名手「愛甲季隆」の解説
源頼朝の妻・妾ら一覧リスト【源頼朝の落胤伝説】解説
鎌倉など関東の史跡めぐりにも便利なオリジナル関東地図

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