鎌倉【やぐら】2分でわかりやすく解説~鎌倉独特「墓の特徴」

やぐら

やぐらとは

「やぐら」とは鎌倉周辺にある独特の墓で、鎌倉時代中期(1250年頃)から室町時代前期(1400年頃)にかけて、よく作らた墓所(横穴式墳墓)です。
鎌倉を取り囲む丘の地質は鎌倉石と言う砂岩であり、横穴を掘りやすいことから「やぐら」と呼ばれた、鎌倉独自の墓が造られるようになりました。
横穴式の墓・巌窟・玄室は、日本全国にもありますが、鎌倉では「やぐら」と呼んでいます。
平坦地が限られる鎌倉では、崖と言う崖には、やぐらが存在していると言う感じになっています。
下記写真は北条政子の墓(やぐら)です。

北条政子の墓(やぐら)

作り方としては、奥行50cm~1m程度の横穴を掘り、地面の下に円形などの穴も掘って、そこに納骨したようです。
鎌倉では多くが火葬のため、火葬後に拾えた骨を埋めたと言って良いでしょう。
そして、その地面に埋めた骨の上に、石造りの墓石を置いたりしました。
なお、下に穴は掘らず横穴に入れた、五輪塔や宝篋印塔の内部に納骨する事例もあったようです。


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また、現在も、見られる横穴の様相と異なり、当時、穴の中は装飾・彫刻が施されたり、副葬品を置いたり大変豪華な状況になっていたと言います。
そのため、墓所と言うよりは、死者を供養する場所と言う意味合いが強かったと思われます。
場所的にも、寺院の裏山、武家居館の裏山、切通し周辺で崖が露出している箇所など、鎌倉では合計1300もの窟(やぐら)があると言います。

代表的なものには、葛原岡神社の北側の谷にある「瓜ガ谷やぐら群」、瑞泉寺から天園に向かうハイキングコースにある「瑞泉寺裏山やぐら群」、北条高時らが自害して果てた東勝寺跡の「高時腹切りやぐら」、巨大な明月院のやぐら、浄光明寺の「網引地蔵やぐら」などがあります。
下記は、鎌倉・海蔵寺の十六ノ井。

十六ノ井

やぐらを墓としている人物の身分としては、鎌倉武士(鎌倉御家人)、芸能人、芸術家、僧侶など、概ね上流階級の人物となります。
石塔には戒名などが掘られていたようですが、700年もの歳月で、風化しており、ほとんどが読めない状態のため、誰の墓なのか特定するのは難しいです。
また、中にはやぐらを再利用している場合もありますが、庶民においては、墳墓で供養という意識はなかったようです。


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なお、源頼朝、北条政子、源実朝北条泰時北条義時など、最高級の者は、やぐらではなく「法華堂」と言う建物が墓所となりました。
現在、北条政子の墓と、源実朝の墓は、寿福寺の裏山にある「やぐら」に存在しますが、これは2人の法華堂があった勝長寿院跡から、後年、移されたものと推測できます。

やがて、鎌倉で建物を建立するスペースもなくなったようで、3代執権・北条泰時は、市街地への墓所の建設を禁じる法律を出しています。
鎌倉時代中期、鎌倉の市街地には、数万~10万人程度の武士・民衆が生活していたと推定されます。
1293年4月12日の鎌倉大地震(M8.0)では、建長寺など多数の神社仏閣が倒壊・炎上し、武家年代記裏書によると鎌倉での死者は2万3034人とあります。


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鎌倉時代初期の埋葬では、火葬してやぐらなどまで、関係者がそろって葬送の列に加わり送ったとあります。
葬式のような事までは、しなかった模様です。
ただし、49日などの法要は、節目節目にて菩提寺などで、きちんと執り行われています。

いずれにせよ、世界遺産登録を目指す、鎌倉での「やぐら」は、ひとつのポイントになりそうです。

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