明智光秀公縁の祠 諏訪(茅野)にある明智光秀の史跡

明智光秀公縁の祠

長野県茅野市にある諏訪大社(すわたいしゃ)上社からほど近い場所に「明智光秀公縁の祠」があります。
なぜ、諏訪に明智光秀ゆかりの史跡があるのか?、とても気になりましたので、現地も訪問して調べてみました。
明智光秀公縁の祠は、道端のヤブの中にひっそりとありました。(トップ写真)
よく見ていないと、見落としてしまいそうなところです。
案内板なども一切ありません。


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1582年、織田信長は甲斐攻めを行い、信濃・飯田城、3月2日には高遠城などを攻略して、諏訪に進みます。
このとき、織田信忠らの軍勢は、3月3日、武田家に従っていた諏訪大社上社本宮を焼き払いました。

そして、新府城を捨てた武田勝頼は3月11日に天目山にて自刃します。
織田信長はあとからゆっくり甲斐へ向かっていた途中に、武田家が滅亡したため、3月19日になって、諏訪大社上社の宮社で、焼け残っていた「法華寺」に入り本陣としました。
この時、織田信長は、しばらく滞在しており、徳川家康と会談したり、活躍した武将らへの論功行賞も行われました。
また、岩櫃城主である真田昌幸真田幸村も面会を果たしたとされ、本多忠勝穴山梅雪、そして、織田勢の明智光秀も詰めていたようです。


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あと、茅野市の塚原にて、模擬合戦(軍事訓練)を行ったとされ、練習とは言え、明智光秀の軍勢が、織田信長の軍勢から勝利したと伝わります。
更に、明智光秀が、今回の武田攻めは「苦労した」と言う趣旨の発言をした際に、織田信長は「お前ひとりが、一体、何をしたと言うのだ」と、織田信長は明智光秀を強く叱責したとも言われており、面目を失った明智光秀の心が、本能寺の変へと動き出したとも考えられています。

そんな由縁あるこの諏訪の地に、桔梗紋?が入っているとされる明智光秀公縁(ゆかり)の祠(ほこら)があるのです。

明智光秀公縁の祠

ただ、明智光秀に縁があると言う解釈は、石墓の家紋が、桔梗の家紋に見えるから?と言う事らしく、この墓が誰の墓なのか?、また単なる供養塔なのか?などは不明なようです。

ともあれ、諏訪大社を焼いた織田信長を討った明智光秀に対して、諏訪の人々は、少なくとも好感を持っていたのでしょう。

明智光秀公縁の祠がある場所ですが、目印としては、建築家・藤森照信さんが作った「空飛ぶ泥船」の先となります。

空飛ぶ泥船

かつては、高遠城に通じる、杖突峠への旧街道沿いだった模様です。


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当方のオリジナル地図にて場所をポイントしてあります。
クルマの場合には駐車場はありませんが、道路が駐車禁止ではありませんので、短時間であれば止められます。
ただし、地元の皆様に迷惑をお掛けしないようにご配慮願いたいと存じます。

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