浅井畷の古戦場

浅井畷の古戦場

浅井畷の古戦場跡(石川県小松市)

浅井畷(あさいなわて)の古戦場とは、
慶長5年(1600年)に起こった北陸地方における
前田利長(東軍)と丹羽長重(西軍)の浅井畷の戦いの場所です。
【所在地】
〒923-0854 石川県小松市大領町1
【戦いの経緯】
慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死後、
徳川家康が権力を拡大させます。
徳川家康に対して、
豊臣氏擁護の立場から、
豊臣氏五奉行の一人である
石田三成大谷吉継らが慶長5年、
会津征伐に向かった徳川家康ら東軍に対して、
挙兵しました。

前田利長は豊臣氏五大老の一人で、
前田利家の嫡男でしたが、
前田利家の死後、
生母の芳春院(まつ)を人質として
江戸に差し出していました。
よって東軍に属しました。
一方、西軍の大谷吉継は
前田利長の動きを封じるため、
越前や加賀南部における
諸大名に対して勧誘工作を行いました。
結果、越前の諸大名の多くが、西軍に属しました。
<西軍>
青木一矩(北之庄城21万石)
青山宗勝(越前丸岡4万6000石)
織田秀雄(大野5万石。織田信長の次男・織田信雄の子)
木下頼継(2万5000石)
丹羽長重(加賀小松12万5000石。丹羽長秀の子)
丹羽長正(越前東郷5万石。長重の弟)
戸田重政(越前安居1万石)
奥山正之(1万1000石)
赤座直保(1万石)
上田重安(1万石)
溝江長晴(1万石)
山口宗永(加賀大聖寺5万石)
山口修弘(1万3000石。宗永の長男)

浅井畷の戦い

前田利長は加賀南部に攻め入るに当たって、
丹羽長重が守る小松城を攻め落とせず、
わずかな押さえの兵を残して
山口宗永・修弘親子が守る大聖寺に
進軍していました。
このため、撤退途中に丹羽軍が
前田軍を追撃する可能性がありました。
前田利長はできるだけ
隠密裏に撤退を行おうとしました。
けれども、2万5000人の大軍勢の動きを
隠密裏にすることは不可能でした。
丹羽長重は前田軍の金沢撤退を知って、
軍勢を率いて小松城から出撃したのです。

小松城の周囲には泥沼や深田が広がっています。
その中を、幾筋かの畷(縄手)が走っています。
畷とは縄のように細い筋になっている道のことです。
小松城の東方に浅井畷という畷がありました。
丹羽長重はこの浅井畷で兵を率いて
前田軍を待ち伏せしました。
8月9日、前田軍が浅井畷を通ったとき、
待ち伏せしていた江口正吉ら丹羽軍が攻撃。
畷のために道幅が狭く、
大軍としての威力を発揮することができません。
このため、前田軍は被害を受けましたが、
前田軍の武将である長連龍や
山崎長徳らの活躍で丹羽軍を撃退しました。
結果、何とか金沢に撤退することができました。
なお、浅井畷古戦場は、
1941年に石川県指定史跡となっています。

付近は静かな住宅街となっています。
路上駐車は可能ですが、
付近の住民の方々の妨げにならないように
ご注意ください。

浅井畷の戦いの結果

この戦いは、北陸における「関ヶ原の戦い」でした。
8月末、前田利長は家康の命令を受けて
美濃に進出するべく再び行動を起こします。
丹羽長重は前田利長に降伏を申し入れましたが、
関ヶ原本戦には間に合いませんでした。
この時、先の戦いには参加していた
前田利長の弟の前田利政は、
居城である七尾城に篭ったまま動かず、
東軍には加わりませんでした。

結果的には、北陸における西軍の奮戦は
報われることはありませんでした。
9月15日の本戦で西軍が壊滅したことから、
越前・加賀南部の諸大名は、
東軍に降伏を余儀なくされたのです。
丹羽長重や前田利政をはじめ多くの諸大名は、
家康によって改易されてしまいました。

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