明智光秀は勝てなかったのか?天下分け目の戦い「山崎の戦い」を検証

明智光秀は勝てなかったのか?天下分け目の戦い「山崎の戦い」を検証

本能寺の変のあと、明智光秀と羽柴秀吉が戦った山崎の合戦。
明智光秀は、どうしても勝つことはできなかったのか?
様々な角度から研究をなさっている、京都の学校長さまが結成している歴史研究団体より、学校教育の参考にしたいと言うお申し出を賜り、恐縮ながら少しだけ所感をお送りさせて頂きました。
改めて、明智光秀は勝てなかったのか?と言う合戦の勝敗に関して、記載してみたいと存じます。

色々と歴史に触れておりますと「合戦」(戦争)と言うのは、有史として知られる以前から、日本ではいつもあったことだと知らされます。
卑弥呼も、そんな日本全域とも言える紛争をまとめて騒乱を鎮めたとされますが、その後も、権力争いが発生しては消えてと、歴史ではその連続です。

もちろん、奇襲であったり、相手の油断を突いたりして、弱小勢力が勝利することもあります。
しかし、戦争(合戦)の勝敗を決める大きな要素としては、まずは「兵力」です。
これは現代でも同じでして、兵力の源は「国力」です。
なんだかんだ言って、人口が多い国のほうが、人材がたくさんいますので、基本的には有利です。
増して、武器の差が大きくない戦国時代くらいまでは、増して、兵力差が勝敗を決める大きな要因であったことは間違いありません。

ただし、勝敗は、戦う将兵の心理的な部分が左右することが多いと存じます。
はやり、人間ですので「死」を恐れるからです。
そのため、太平洋戦争でも、軍部や政府は、戦死したら軍神となって靖国神社に行くようなことを主張して、少しでも死を恐れないようにし、また命令は絶対だとしました。

もちろん、桶狭間の戦いまように、大軍でも指揮官たちが油断していれば、少数に負けてしまう事があります。
油断大敵と言う言葉があるくらいですのでね。
今でこそ違いますが、戦国時代の兵士は自分の考えでは動けません。
文字も読めない者が多いわけですので、指示を受けないと行動できません。
よって、指揮官(隊長)からの指示がないと組織として機能しません。
逆に申し上げますと、そのあたり、指揮官の腕の見せ所でもあったはずです。

でも、戦うのは人間ですので「自分たちが負けそうだ」と感じてしまえば、士気が下がります。
恐怖心を抑えられなくなれば、逃げ出してしまう、すなわち「敗走」することになります。
そのため、武田信玄も、負けない戦いをするため、とにかく慎重に合戦を行いました。
負けるはずがないと思っている軍勢は強いです。
同じ兵力でしたら、敵よりも、負けたくないと言う思いが強い軍勢のほうが勝ちと言えます。

明智光秀は、本能寺の変で織田信長織田信忠を見事に倒しました。
信長の遺骸は出てきませんでしたが、ほぼ完ぺきと言っても良い成果でしょう。
しかし、冷静に考えてみれば、やはり家臣の裏切り行為でしかありません。
明智光秀に、本当に織田信長を殺害するだけの大義名分が不足しているのです。
単に、織田信長が嫌いになったのであれば、武士を辞めて帰農でもすればよい話です。
天下国家の為だと言うには、謀反を起こすほどのことであったのか?と疑問も生じるかとそ存じます。

そのような意味では、事前のも根回し、仲間集めができていないのは致命的です。
それを考えますと、まぁ、前日とは申しませんが、そんな根回しする余裕がないほど、直前に本能寺へ行こうと決断したことでしょう。
そんな準備不足もあり、明智光秀が諸大名に味方してくれとお願いしても、多くの武将は返事をしませんでした。
武将も人間ですので、だれが勝者になるか、見極めて、勝見込みがある方に協力するからです。

そのため、羽柴秀吉らと戦う前から、山崎の戦いでの勝敗は決していたものと推測致します。
仮に、柴田勝家と戦っても、明智光秀は負けていた公算が高いのではないでしょうか?

まして、羽柴勢は、中国大返しをしたものの、大坂(摂津)の勢力も加わり、兵力でも明智勢を上回りました。
しかも、山崎の天王山と言う、高所を先に抑えており、地形的にも有利です。
簡単に言えば、合戦だけを見ると、羽柴秀吉の方が、明智光秀よりも上手く運んだと言えますが、その前の戦略でも明智光秀は失敗していたと推測致します。

明智光秀も優秀な武将ですので、そのあたりは、自覚していたでしょう。
本能寺の変のあとに考えていたのは、柴田勝家や羽柴秀吉が討伐に来たとしても、数ヶ月の時間はあると考えていたのは間違いないでしょう。
特に羽柴秀吉は大国・毛利家と対峙していましたので、すぐに動けるはずがありません。
その時間を使って、朝廷・天皇からのお墨付きも得られれば、自分の行為を正当化、いわゆる官軍にできれば、自然と味方する武将も増えて来るだろうと考えていたはずです。
明智軍に対して攻撃してくる方が、賊軍になる訳ですのでね。
幕末に、薩長が朝廷から官軍として支持を得て、徳川幕府軍を倒した時と同じです。
薩長は戦う前から、充分に根回しもしていました。
しかし、そんな工作する時間も十分にないまま、山崎の合戦となりました。
そのような意味では、すぐに軍勢を向けた羽柴秀吉の行動力は、凄すぎます。

坂本城に籠って体制を万全にすると言う選択肢もありますが、攻めて来た相手から逃げれば、京都の支配権を放棄することになります。
京の支持を得られなければ、諸大名からの指示も得られるわけなく、戦わずに明智勢は崩壊するため、不利でも敵を迎え撃つしかありませんでした。

大山崎の重要性

西から京都を攻める場合には、天王山の確保は、まず最初の第1条件として考えられるかと存じます。
逆に京都を防衛する場合には、天王山を取られてはいけません。
のち、豊臣秀吉が大坂城を築く前に、天王山の山崎城を本拠地としたことでもわかるくらい、非常に重要な要所です。
古来より何度も、山崎で合戦があったのが、その重要性を物語っています。

ご承知の通り、山崎の南には淀川が流れています。
今でこそ堤防がありますが、昔の淀川一帯は、葦が茂った低湿地帯です。
そのため、旧西国街道も大山崎の現在の線路よりも、北側にある標高の高いところを通過しています。
そして、地形的にも、淀川の南には、石清水八幡宮がある丘もあります。
となりますと、大軍の行動は制限されますので、関ヶ原と同じように、先にこの場所の高所を抑えたほうが、合戦を有利に進められます。

京に物資を運ぶ最も重要な街道+河川ですので、物資が京都に入らずに京の人々が困れば、明智の評判も落ちます。
天王山や山崎の旧西国街道からは、京都方面の展望も良いので、敵の動きもよくわかります。
仮に、敵が大山崎に迫ったら、狭い街道ですので、大軍の隊列は細く長くなってしまいますので、防衛上有利です。
すなわち総合的に山崎を取ったほうが有利なのですが、このように「負けない戦い」をするため、羽柴勢は大山崎を占拠したのでしょう。

羽柴勢の主力は、走って大坂に戻りましたので、疲れています。
そのため、大軍と言えども合戦で頼りになるのは、豊臣秀吉の呼びかけに応じて味方してくれた高山右近、木村重茲、中川清秀池田恒興池田元助加藤光泰丹羽長秀、そして織田信孝です。
織田信長の3男・織田信孝が羽柴勢に加わったことで、大義名分もできました。

遠回りして、他の道から京にも進軍はできますが、途中で合戦になる可能性を考えたら、大山崎のほうが有利で負けにくい訳ですし、京都への最短距離でもあります。
負けにくいと言う事は、兵も安心しますので、士気もあがります。
こうして、必然的に天王山を本陣にしたわけです。

しかも、羽柴勢は、先にこの大山崎を占拠できれば、もう京都は目の前ですので、明智光秀にプレッシャーを与えられます。
そうすれば、明智勢は、ひょっとしたら降伏するのではとも、考えていたかもしれません。
でも、明智光秀は降伏もせず、仏門に入って謹慎をしたわけでもなく、最後まで戦ったことを見ますと、本能寺の変は、やはり天下への野心があったと言えるでしょう。

地元の大名である中川清秀・高山右近ら、大山崎付近の武将らは羽柴勢に味方しました。
もちろん、明智光秀も、中川清秀・高山右近に味方になってくれと頼んでいる以上、勝手に軍勢を進めては、侵攻したことになり、逆に反感を買ってしまいます。
よって、明智勢が動けたとしても、大山崎を先に確保すると言う行為は、難しかったと言えます。

そのため、確保できた淀城勝竜寺城に明智勢を入れて籠城の備えを行いましたが、準備期間が2日程度しかなく、体制を充分に整えられませんでした。
岩清水八幡宮はなんとか明智勢が抑えましたが、敵の方が兵力が多いと知ると撤退させています。
そのため、決戦を挑むしかない状態になったと言えるでしょう。

そのような意味でも、戦う前から、ある程度、敗戦は決まっていました。

しかし、明智光秀は自分のしていることが天下国家のためであれば、天の恵みがあるはずだと、まぁ、奇跡を期待したのかも知れません。
それでも、大義名分も羽柴勢の方が強く、攻撃してきた敵も大軍であったため、明智勢の士気は著しく低くなりました。
少し戦って撤退した勝竜寺城に入りきらない兵もいて、逃亡する兵が続出し、負けるべくして負けました。

「籠城」すると言う意味は、敵の攻撃を有利に防ぐと言う事がありますが、味方を逃げさせないと言う意味でも、門を閉ざして、籠城します。
明智勢は、その城にも全員入りきれなかったと言う事ですので、城に入れないのであれば、怖さも倍増で、逃げ出す気持ちもわかります。

このように、合戦では、敵よりも味方の将兵の心を掴んでいたほうが、勝ちとも言えるかと存じます。

もちろん、皆様の見解も様々でしょうし、色々なお考えがあるかと存じます。
当サイト「歴史観」では、そんなご自身の意見をこのように記事として投稿することもできますので、ぜひお聞かせ頂けますと幸いです。

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