赤塚の戦い 織田信長が「うつけ者」と言われた由来

赤塚の戦い

元服後まもなく吉良大浜の戦いで初陣を果たした織田信長は、支配下の村々から次男や三男といった後継ぎとなれない若者を集め常備軍を結成すべく那古野城で軍備拡張に励みます。

織田信秀の死と周囲の情勢

天文17年(1548年)小豆坂の戦いで今川方の太原雪斎(たいげん-せっさい)に敗れた織田信秀は、美濃の斎藤道三との抗争に加え、守護代で主家にあたる清州城の織田大和守家との紛争にも苦しむといった四面楚歌の状態を打破するため、斎藤道三と和睦を決意。
翌天文18年(1549年)の2月には道三の娘である濃姫織田信長の婚姻を行い、北方の安全を一旦は確保しました。

同年3月、今川義元は太原雪斎を主将として安翔城を攻撃しますが、この時は織田信秀の庶子で安翔城主となっていた織田信広が奮戦して今川軍を撃退。
しかし9月にも攻撃を受け、平手政秀の援軍も虚しく安翔城は落城します。
この安翔城攻略戦の際に織田信広は捕らわれ、織田家の捕虜となっていた松平竹千代(後の徳川家康)と捕虜の交換を行うなど西三河から織田家は駆逐される事となりました。


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さらには織田信秀が病に倒れた(※注)ため織田信長が跡を継ぎましたが、織田家の求心力は低下し、天文20年(1551年)には対今川軍の最前線で活躍していた鳴海城の山口教継(やまぐち-のりつぐ)が離反する事となります。
※注
織田信秀の死亡年に関しては天文18年、天文20年、天文21年など諸説ありますが、ここでは天文20年説を取っています。

鳴海城

この様子は信長公記
天文弐年癸丑四月十七日、織田上総介信長公、十九の御年の事に候。
鳴海の城主山口左馬助、子息九郎二郎、廿年、父子、織田備後守殿、御目を懸げられ候ところ、御遷化候へば、程なく謀叛を企て、駿河衆を引き入れ、尾州の内へ乱入。
沙汰の限りの次第なり。
一、鳴海の城には子息・山口九郎二郎を入れ置く。
一、笠寺に取出要害を構へ、かづら山、岡部五郎兵衛・三浦左馬助・飯尾豊前守・浅井小四郎五人在城なり。
一、中村の在所を拵え、父山口左馬助楯籠る。
と記されています。

注釈を付けながらの現代語訳をすると
最初の天文2年(1533年)癸巳は明らかな間違い(信長は天文3年生まれ)で、正しくは天文20年(1551年)4月17日、信長が19歳の時に小豆坂の合戦などで手柄を立て織田信秀に目をかけられて鳴海城主となった山口左馬助(教継)と息子で20歳になる山口教吉(やまぐち-のりよし)は信秀の死後、今川方に寝返って駿河衆(今川軍)を鳴海城に引き入れると、今川軍は一帯を荒らしまわった。
この所業は言語道断である。
鳴海城には九郎二郎(山口教吉)が入り、笠寺には砦を築き葛山長嘉、岡部元信、三浦義就、飯尾連龍、浅井政敏の5名の武将が立て籠もり、山口教継は笠寺から約1.5km北に桜中村城を築き、信長軍に対して最前線に立ちはだかる事にした。
となります。

桜中村城近辺にある桜公園
桜中村城

いざ開戦

山口親子の寝返りを聞いた織田信長は内藤勝介・蜂屋般若介・荒川与十郎・長谷川橋介・青山藤六・戸田宋二郎・賀藤助丞らと共に800の兵を率いて鳴海城へと急行します。
これに対し山口教吉は清水又十郎・柘植宗十郎・中村与八郎・萩原丞十郎・成田弥六・成田助四郎・柴山甚太郎・中島又次郎・祖父江九介・横江孫八・荒川又蔵らの豪族を中心に1500の兵を集めて信長軍を赤塚の地で迎え撃ちます。

巳の刻(午前10時頃)矢戦から始まった戦いは、両軍の間わずか3~4間(約5m)に迫る大混戦となります。
信長軍の荒川与十郎は兜を被り金銀造りの太刀を持っていたと伝わっていますので、それなりの地位にあった武将と思われますが、矢に当たり落馬し山口軍の兵士に足を掴まれて引きずられて行く所を自軍の兵士達が与十郎の上半身に飛び掛かり両軍が与十郎を引っ張り合った結果、信長軍が連れ戻す事に成功したとあり、戦後は捕虜や馬を相手に戻しているなど、お互い顔見知りと言う事もあってか実際の損害は少なかったようで、いわゆる痛み分けの結果に終わったと言われていますが、倍近い敵に対して30名程度の討死で終わらせた信長軍の強さが際立った戦いとも言えるでしょう。

うつけ者の織田信長

山口教継親子は織田信秀が死去した後、織田信長に見切りをつけて裏切ったと言う説が一般的ですが、近年では織田信秀が生存中に山口教継は今川義元に接近しており、西三河一帯だけでなく尾張東部も今川氏の支配下になっていったとされています。
今川氏に圧された織田信秀と宿老達は幕府に働きかけ、後奈良天皇の綸旨によって織田・今川は停戦しますが、この停戦中、山口氏など尾張南部の武将は本格的に今川氏との交流を深めて行く中、織田信秀が病死。
跡を継いだ織田信長は家中の引締めを必要としたため、停戦を破って兵を出したと言われています。


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これまで戦続きたったため和平が成ったと喜んでいた豪族達は、幕府の働きと天皇の綸旨による和平交渉を破り、勢力拡大が著しい今川氏と戦を始めた織田信長を「うつけ者」と呼んだとされます。
今川義元の西進は京へ昇る事も目的の一つだったかもしれませんが、幕府が命じた停戦を一方的に破ってきた織田信長を討伐する事も大きな目的だったのかもしれません。

戦後の状況と現在

信長軍の強さが際立った赤塚の戦いでしたが、戦後は山口教継が大高城沓掛城に対し調略を仕掛けて今川方に寝返らせ、鳴海城には岡部元信が城代として入場。
東海道沿いに尾張南部あたりまでが今川氏の勢力範囲となり、伊勢湾を経由して津島の服部党や伊勢本願寺衆などがこれに呼応。
織田方に味方する緒川の水野氏は今川氏の勢力範囲の中で孤立していく事になります。
これに対し、織田信長は偽の文書を使って山口親子を今川義元に謀殺させたと伝わっています。
また同様の話が戸部城主の戸部政直にもある事から、謀殺されたのは戸部政直で山口教継では無いと言う説や、二人が同一人物であると言う説もあります。

●赤塚の戦い巡礼
※笠寺観音と富部神社以外は駐車場はありませんので、訪問の際はご注意ください。

・赤塚古墳
名古屋市緑区鳴海町赤塚136-1

・鳴海城
名古屋市緑区鳴海町字城
鳴海城公園一帯が城跡と言われている他、東側に位置する天神社にも看板が立てられています。
また、城跡すぐ南を通る東海道には鳴海宿本陣跡の看板も残されています。

鳴海本陣

・笠寺
名古屋市南区笠寺町下新町
笠寺観音や一里塚などがあります

笠寺一里塚

・桜中村城
名古屋市南区元桜田町2
桜公園一帯が城跡と言われていますが、遺構などはありません


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・戸部城
名古屋市南区呼続4-13-38
富部神社境内に城址碑などが移設されています。
※2016年までは名古屋市南区戸部町3丁目に碑などがありました。

戸部城

(寄稿)だい

織田信長「14歳での初陣」吉良大浜の戦い
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