桶狭間の戦い「織田信長の登龍門」経済的要地争奪戦であった

桶狭間の戦い

2020年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』、主演の長谷川博己さんをはじめ本木雅弘さん、染谷将太さん、川口春奈さんなど素晴らしい役者さんの名演技が話題となり好評で何よりでございますが、2020年6月14日の日曜には、染谷さん演じる織田信長の大舞台となった桶狭間の戦い(1560年)」がいよいよ放送されました。今回の麒麟版・桶狭間本戦に光秀がどの様に関わり、劣勢の信長が大敵・今川義元(演:片岡愛之助さん)を撃破するストーリー展開になってゆくのか、という事を考えると1人の視聴者として心待ちにしている次第でございます。

 一族や重臣との抗争の末に、漸く尾張国(愛知県西部)の支配権を確立し新興戦国大名として自立した織田信長が、足利将軍家一族の名門であり、駿河・遠江(静岡県全域)、三河国(愛知県東部)、そして尾張の「知多半島」の一部を領有していた有力戦国大名(通称:海道一の弓取り)の今川義元率いる大軍を、桶狭間の戦いで撃破。


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 織田氏の長年の脅威であった義元を撃破した信長は、それ以降勇躍して美濃国(岐阜県南部)の攻略を本格化させ、天下布武の道へと邁進してゆくことになるという、「桶狭間の戦いは信長にとっての登龍門」というべき一大決戦のように位置付けられているということは周知の通りでございますが、元来、その『桶狭間の戦いが起こった理由(起因)』は何であったのか?
 桶狭間の戦いも、他の有名合戦、例えば厳島の戦い(1555年)や第4次川中島の戦い(1561年)と同様に、『経済要地争奪戦』が発端となっているのであります。
信長と義元の桶狭間の場合は、戦国期当時から農商業で拓けた尾張国、更に絞って言ってしまえば、『知多半島の領有を巡る攻防』が、信長の大舞台・桶狭間の戦いの発端となっているのです。

現在の知多半島(愛知県常滑市)には、2005年2月に中部国際空港(通称:セントレア)が開港され、国内外の玄関口の1つとして中京圏の人々に重宝されていますが、元来、知多半島内には大きな河川が無い上、平坦地も少ない丘陵地帯であるために稲作農耕には不向きな痩地(粘土質が多く「常」に「滑」る土地柄、拠って常滑と呼ばれた説がありますが)、即ち石高が富裕では無い土地柄でありました。事実、1961年に岐阜県加茂郡八百津町から知多半島南端の南知多町まで引かれている愛知用水(農工業用水および上水道用)が開通されるまで、知多半島全体は慢性的な水不足に悩まされていたのであります。
この知多半島の水不足問題が解決されたのは現在から僅か60年前の事であり、用水が引かれていない戦国期当時では、大量な水を要する農業には、極めて不向きな土地柄であったことが想像に難くありません。農業生産力(石高)が主力であった当時、米生産力方面のみで知多半島という場所を見てみると、決して魅力的な場所ではありません。しかし、信長(父・信秀も含む)、義元という戦国期を代表する英邁な人物たちは、知多半島の領有を巡って、長い間、軍事行動や外交戦で死闘を繰り広げ、最終的に1560年の桶狭間の戦いに至るのであります。
 信長や義元を強く惹きつけるほどの吸引力をもった当時の知多半島には、一体何があったのか?それは、『常滑焼』という陶業であります。


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 日本全国、と言っていいほど焼物(陶業)が盛んでありますが、その中でも常滑焼(甕や壺が主流)の歴史は古く、瀬戸焼・備前焼と並んで「日本六古窯」に数えられており、知多半島内で、最盛期には1000基以上の窯があったという途方もない伝説がうまれるほど常滑焼陶業は盛んでした。
 その証拠に、12世紀末(平安末期)には既に盛んに陶器が生産、各地方に流通され、遠く離れた奥州藤原氏の本拠地・平泉の遺跡からも常滑焼が多く出土され、鎌倉期になると更に生産流通に拍車が掛かり、ライバル関係である備前焼の圏内であるはずの中国地方(山陽側)で栄えた港町・草戸千軒町(広島県福山市)、また九州各地の遺跡からも多くの常滑焼が出土されています。
 中世期に北は東北、南は九州に至る広範囲まで、常滑焼が行き渡っているというのは、流石は六古窯の1つに数えられるほどの常滑焼の隆盛ぶりを物語っていますが、東西に長い列島である日本のほぼ真ん中に位置する尾張、厳密に言えば古来より海上交通の要衝である「伊勢湾および三河湾(総称:伊良湖水道)」に面する知多半島という流通上の地理的好条件が、常滑焼の隆盛(全国展開)の一翼を担っていたことも大きいと思われます。因みに現在でも常滑市内には、常滑焼の土管で通路両面が覆われた「土管坂」を筆頭する名所「やきもの散歩道」があり、また店頭ではお馴染みの陶器製の置物「招き猫」の日本一の産地として、現在でも陶業が重要な地場産業となっています。
 
 知多半島を根拠地とする置く有力国人衆「水野氏」や「佐治氏」の2家は、伊勢湾交易で勢力の伸ばしていた勢力であります。その2家を味方に付けるべく織田氏や三河の松平氏は婚姻外交を行っており、水野氏からは於大の方が西三河の松平広忠が嫁ぎ、その両人の間に竹千代、即ち徳川家康が誕生し、一方の佐治氏は信長の妹であるお犬の方(大野殿)が嫁ぎ、織田氏との絆を深めています。
 結果的に水野と佐治という2家は、2人の天下人と深い繋がりを持っていたということになるのですが、織田や松平(徳川)が知多半島に根を張る国人衆たちと婚姻関係を結ぶということを思ってみても、同地が「陶業」と「海上交通」の2つを併せ持つ重要な経済拠点であったのかがわかります。
 水不足や地質(粘土質)などの地理的条件により農業には恵まれない知多半島でしたが、そこから多くの常滑焼が生産され搬出されたであろう伊勢湾交易の別の要衝「津島」と「熱田」を握っていたのが、織田信秀・信長父子であることは有名な事実であり、織田氏(信長の弾正忠家)が、小勢力ながらも両方の湊から産み出される経済力を背景に軍事力を蓄え、隣国の美濃や三河に進出していったのも有名であります。
 信長は強運の持ち主としばしば言われていますが、何よりも信長の運の良さは、農業生産力が高いのみではなく、商工業(陶業・海運)が盛んな尾張国を根幹地とする戦国大名として出発できたことであり、更に言えば、津島・熱田という経済拠点を父祖の代で手に入れており、両方を信長がそっくり受け継ぐことができたということであります。後に信長と敵対することになる甲斐国(山梨県)の武田信玄とは超絶したほどの経済的格差であります。


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 当時、東海地方、というより、「全国有数の工業地帯」であった知多半島を巡り、三河や尾張東部で織田と今川は長年攻防を繰り広げており、元服直後の信長も対今川戦線で初陣を果たし、また当時幼少期であった松平竹千代(のちの徳川家康)もこの織田今川の抗争に巻き込まれる苦難(実母・於大の方との離別など)に見舞われています。
 その最中に、信秀当主時代の織田氏は一時期、西三河(安祥一帯)まで勢力を拡げることに成功しますが、やがて駿河・遠江、そして三河の殆どを勢力下に治め、内政・外交・軍事で優れた手腕を発揮し、「東海道一の弓取り」と謳われた今川義元の強勢に織田氏は苦戦を強いられるようになり、第2次小豆坂の戦い(1547年)で今川の大軍によって、織田軍は敗退。安祥一帯の領土も失い、織田氏は三河での足掛かりを完全に失ってしまいます。そして、1550年頃には今川の勢力は遂に知多半島の付け根部分である愛知郡・知多郡にも及ぶようになり、織田は危機的状況を迎えます。
 即ち織田配下の国人衆で鳴海城城主であった山口教継が今川氏に寝返り、更に教継の手によって知多半島統治における織田方の重要拠点であった大高城沓掛城も今川方に寝返ったのであります。
 今川義元からしてみれば、鳴海・大高・沓掛という3諸城を今川方に引き込むことによって、知多半島、そして富裕な尾張を攻略する最前線基地を3つも手に入れたことになり、対しての織田にとっては、今川の勢力圏が尾張国内まで侵食されたばかりでなく、常滑焼という一大陶業産地である知多半島の半分(ほぼ中央部)を喪失、織田の重要経済基盤である伊勢湾上の交易圏も脅かされるという状況になったのであります。
 上記のような織田方不利のところで更なる不幸が起こります。1551年に織田信秀が42歳の若さで病没してしまったのであります。強敵・今川の攻勢が強まる中での信秀の死は、その跡を継いだ青年の信長(当時19歳)にとっては、決して幸先が良い戦国大名デビューではなく、信長自身も精神的に相当な重圧を受けていたことでしょう。
 その信長を更に窮地に追い込まれることになったのは、信秀の死によって織田氏一族は勿論、配下の国人衆たちにも大きな動揺を与えることになり、今川への内通者の増加、そして「尾張国で内部分裂」が頻発するようになります。その好例が、信長の本家である尾張下四郡の守護代・清洲織田氏(大和守家)をはじめ、庶兄(異母兄)の信広、そして同腹弟(信長と同じく嫡流)である信勝(勘十郎、信行)の一族離反であります。特に実弟である信勝は、信秀最後の居城・末森城を本拠とし、信長の経済源の1つである熱田にも大きな影響力を持つほどの勢力であり、家督を継いだばかりの信長にとっては脅威(獅子身中の虫、と言うべきでしょうか)となっていました。


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 信長とって正に、この状況は「弱り目に祟り目」、「内憂外患」ですが、信長は東尾張の今川方の諸城の攻略を行いつつも離反した一族討滅を断行していきます。
 1555年、先ず信長は清洲城織田信友(彦五郎、大和守家当主)を、叔父(信秀の弟)・織田信光と組んで滅ぼし、次いで信広を降伏させ(1556年)、1558年には、信勝を謀略を用いて殺害しています。更に信長は清洲城を奪取した後、徐々に対立関係になっていたと言われる信光をも誅殺しています。
 この骨肉相食む織田氏のお家騒動の最中に、東から今川からの大攻勢を受けなかったことは(信長にとって)幸いでしたが、信長は一族を容赦なく滅ぼすことにより信長体制下による尾張の地固めを行ってゆき、信勝を誅殺した同年(1558年)に、やはり信長と敵対していた一族・尾張上四郡の守護代・岩倉織田氏(伊勢守家)を滅ぼし、信長が尾張(知多半島など東尾張を除く)を漸く統一するのは1559年、即ち桶狭間の戦いの前年であります。
 余談ですが、信長に滅ぼされた岩倉織田氏の家老の1人であった山内盛豊という人物がおりますが、この三男が後に土佐藩の初代藩主となる山内一豊であります。

 旧来のドラマなどの創作世界では、この内憂外患の尾張時代の信長は織田一族や味方内で、内通者や造反者がいくら出ようと、唯我独尊・動じることなく颯爽として事に当たるという、既に英雄たる風格を兼ね備えている大人物(戦国期最大の天才)として描かれる所ですが、実際はそんな格好良い話ではなく、信長は「いつ自分が滅ぼさるのか?」という不安に苛まれていたことでしょう。

『(当時の信長を)助ける者は稀であった』

上記の一文は、信長の一代記『信長公記』に記されているのですが、一族間との闘争に苦心惨憺している信長の孤立無援状態を現しています。

 苛烈な一族との抗争を勝ち抜き尾張の大半の平定を果たした信長は、知多半島に楔を打ち込んで、陶工業および伊勢湾の制海権を脅かす今川と「知多半島の領有権」を巡る攻防に向き合うことになります。
 1554年、信長が(未だ一族抗争の坩堝にいた時)に、知多半島での今川方の城塞の1つである「村木砦」(村木城の戦い)を、多大な犠牲を出しながらも攻め落としたのも今川戦線の一環なのですが、尾張を平定した信長が今度展開した作戦は、自分が織田の家督相続した前後(即ち信秀が死んだ頃、1551年)に今川へ寝返った「鳴海城」「大高城」に対して、城塞群を構築して鳴海・大高の両城を牽制します。
 鳴海城に対しては、「丹下砦」「善照寺砦」「中嶋砦」を構築して包囲。大高城に対しては「丸根砦」「鷲津砦」を築くことによって牽制。信長は鳴海・大高の両城の連携および補給路を封じると同時に、今川の本拠地である駿河遠江に繋がる通路も切断したのであります。
 因みに信長はこれらの善照寺や丸根などの城塞を、尾張平定を果たした同年(1559年)に築いるのですが、長い間の内部抗争を鎮め、尾張国に拠る新人戦国大名として自立した信長が、経済拠点の知多半島を含める尾張東部(愛知郡など)の領有権を確固たるものにするべく、知多郡などに侵食して来ている宿敵・今川に挑む意気込み(今川義元からしてみれば明らかな「挑発行為」)が、上記の砦群構築から感じられます。


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この信長が展開した作戦は、敵拠点の動きを封じる(包囲)するために、その拠点周辺に、陣城や砦を築いてゆくという、所謂『付け城』と呼ばれるものであることは皆様よくご存知でしょうが、この後も信長やその家臣団は幾多の強敵との合戦(攻城戦)で、この付け城作戦を実施しています。北近江の戦国大名・浅井長政の本拠地・小谷城攻略(1570~1573)、石山本願寺や伊勢長島の一向一揆(本願寺)戦前、信長は敵本拠地や拠点周辺に、多く城塞を築き長期間包囲し、敵の兵站線や情報通路を遮断することによって弱体化させ、遂に敵拠点を陥落させるのであります。
 この信長がよく用いた付け城の作戦を、より上手く展開したのが、木下藤吉郎、即ち羽柴秀吉であります。播磨三木城攻め、因幡鳥取城攻め、備中高松城水攻め、相模小田原城における包囲戦、これらは全て城攻めの名人と謳われた秀吉を語る上での見せ場となっている大舞台である一方、信長伝来の作戦・付け城を大胆かつ緻密に行い、締め上げるように敵城を完全孤立化させ、敵を降伏させるという戦い方でもあります。

 信長や秀吉が付け城作戦を成功させるには、敵拠点を包囲するだけの城塞を築くための資材や財力、人夫(作業員)、その城塞守備のために詰めさせる兵力や武器など多種多様な物資・人員が必要不可欠だけでなく、味方の兵糧・武器弾薬の補給能力、即ち堅固な兵站線も必要となってきます。一言で言ってしまえば、莫大な経済力が必要となってくるのですが、信長や秀吉は、それに耐えゆるだけの経済力を常に持っていたのであります。そして、尾張を統一したばかりの信長(当時27歳)は、陶業と伊勢湾交易の拠点であった知多半島から今川勢力を駆逐するために、今川方の鳴海・大高の諸城を複数の砦(付け城)で包囲したのであります。
 対して義元も、信長の付け城によって孤立化した鳴海・大高を救援するべく駿河・遠江・三河の将兵を率いて出陣します。
この信長・義元の駆け引きが起因となって、「桶狭間の戦い」へと発展し、戦国史というより、日本史を大きな転換点となるのであります。

 その勝負の結果は、皆様よくご存知ですので、詳細の事は割愛させて頂きますが、勝利した信長が結果的に鳴海・大高・沓掛などの知多半島および東尾張一帯の諸城を攻略し、経済拠点である知多半島の支配権と伊勢湾の制海権を確固たるものし、宿願の美濃国攻略に邁進してゆくことになります。
一方、敗北した義元は自身が討死し、他にも今川軍の中核を担っていた「重鎮および有力国人領主(寄親武将たち)」であった松井宗信・井伊直盛井伊直政の実父)・由比正信も桶狭間の激戦で討死し、「東海道の弓取り」、歴史学者(城郭考古学)の千田嘉博先生に拠ると『(桶狭間)当時の最大勢力にして、最も天下人に近い勢力』であった名門戦国大名・駿河今川氏は著しく衰退し、桶狭間の戦いの8年後の1568年に、かつて今川氏の盟友であった甲斐の武田信玄、そしてかつての今川氏傘下の重臣であった徳川家康(松平元康)に挟撃され、今川氏は滅亡します。
 更に興味深いのは、今川滅亡の同年、桶狭間で今川軍に大勝した信長が、足利義昭を奉じ、大軍を率いて上洛を果たしていることです。8年前まで『天下人に近い勢力』であったはずの今川氏が滅亡する羽目になり、その今川氏の強勢で窮し、もしかしたら敗亡していたかもしれない信長が大軍を率いて堂々と上洛を果たしている。


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 この何とも言えぬスペクタクル劇?ような展開が始まったのが1560年の桶狭間の戦いであったのであります。そして、日本史の大きく転換させた織田信長vs今川義元の一大合戦の発端が、「陶業(常滑焼)」と伊勢湾交易」の経済拠点であった『知多半島の領有を巡る攻防』であったのであります。1つの経済戦争が歴史を大きく動かした一例と言っても過言ではないと思います。

(寄稿)鶏肋太郎

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