毛利元就の大躍進『厳島の戦い』は、経済拠点争奪戦でもあった

毛利元就の大躍進『厳島の戦い』

皆様よくご存知の通り、戦国時代「下々の者が軍事的や政治的によって上級者を凌駕する(剋つ)」、所謂『下剋上』の時代であります。
現在でも政界や大企業などの経営陣の交替場面などでよく耳にすることがある下剋上という言葉ですが、この原典は、中国大陸で興った隋王朝時代の陰陽家・蕭吉(しょうきつ、525?~606)が著した『五行大義』という陰陽道書に、「凡そ上、下に剋つは順たり。
『下、上に剋つ』は剥たり」という下剋上とは順序が良くない、即ち剥であるという文が由来となっています。

鎌倉・室町と続く両幕府という、当時の正規武士政府から日本各地に差遣された武士(御家人)たちが、守護大名として各国のリーダーとして君臨していました。
その好例として、九州の大友・少弐・島津などの守護大名がいます。

しかし室町中期になると、6代将軍・足利義教が有力守護大名・赤松満祐に暗殺される「嘉吉の変(1441年)~この事件も立派な下剋上と言えますが~」を皮切りに、8代将軍・足利義政の頃に勃発した関東地方の内乱「享徳の乱(1455~1483)」、そして有名な「応仁の乱(1467~1478)」などにより、足利幕府の権威は著しく衰退することにより、幕府の権威を背景に日本各地の統治権を握っていた守護大名の勢力にも大きく悪影響を及ぼすことになり、それまで守護大名の下で臣従を強いられていた守護代や国人(土豪)などの下級勢力が主筋であるはずの守護大名を凌駕するようになっていきます。

室町中期、即ち15世紀中盤~16世紀初頭は、確かに当時の首都圏である京都や畿内などが戦乱で被害を受け、中央政府である足利幕府、その政府から各地の統治を任命された守護大名の勢力が衰えた「旧体制の崩壊時代」でありましたが、またその反面、鉄製農具などの大量生産力が向上したことによって、農業生産が
著しく向上し、それに伴って商業流通・各産業が全国的に発展した革新時代でもありました。

幕府権力衰退など政治的大混乱を他所にして、全国的に農業・商業流通が大発展することによって、その従事者であった下流層である農民・商工業者・馬借(流通業)などが自力を蓄えるようになり、それらを上手く束ねた頭目的存在が戦国期に台頭し、守護大名ひいては幕府を打ち克つことになってゆきます。その好例が、守護の富樫氏を追い落とし「百姓で持ちたる国」と言われた加賀国(石川県南部)の「一向一揆衆」をはじめ、越後国(新潟県)の守護代長尾為景(1486~1543、上杉謙信の実父)」、尾張国(愛知県西部)の守護代の家臣(奉行)から身を興した織田信秀(1511~1552、織田信長の父)」、商人身分から美濃国(岐阜県南部)の戦国大名となったとされる「斎藤利政(1494~1556、信長の舅、道三の号で有名)」たちであり、各々が把握する農業生産力や商業経済力のみを屋台骨として下級層から戦国大名に成り上がった「下剋上の典型的存在」であります。

上記の為景や信秀といった強豪以上に、下級身分(弱勢力)から大勢力を破り、遂には戦国期の西日本最大の勢力となったのが毛利元就(1497~1571)』であります。
元就こそ~面妖かつ陳腐な言い方ですが~「下剋上のスーパースター」と言っても過言ではないかもしれません。

越後の長尾、尾張の織田などは、各氏の上級階級である守護大名などを凌駕し、有力戦国大名となっているのは事実ですが、それは飽くまでも親子2代(若しくは3世代)を通じて下剋上が達成されているのに対し、毛利氏の場合は、元就一代で安芸国(広島県西部)の盆地である吉田荘に割拠する零細国人領主から、それまで中国地方の2大強豪であり名家であった周防・長門国(山口県)の大内氏、出雲国(島根県東部)の尼子氏を撃破し、中国地方10ヶ国や北九州の一部などを領する西日本最大の戦国大名へと急成長を遂げているのですから、元就こそは『下、上に剋つ』、下剋上の最強であったのです。


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元就が一代で、最大の下剋上(中国地方の覇者)を成し遂げることが出来たのは、先ず元就が「類稀なる戦上手」であったことが大きな要因となっていることは疑いようがありません。
テレビ番組などでもお馴染みの歴史学者で東京大学史料編纂所教授の本郷和人先生の著作『真説 戦国武将の素顔』(宝島社新書)で、元就の戦上手を以下のように評しておられますので、少し長文ですがその箇所を抜粋させて頂きます。

『元就は非常に優秀な男で、こんな人物は他にいないでしょう。
戦国大名の軍事的な才能というのを考えたときに、毛利元就は突出していると思ってます。
なぜかというと、永正13(1516)年、安芸武田氏5000に対し毛利が1000で戦った元就の初陣である「有田中井出の戦い」、天文9(1540)年に尼子が2万の兵を率いて吉田郡山城を囲んだ「吉田郡山城の攻防戦」、そして最後は天文24(1555)年の「厳島の戦い」。
これは3つとも絶望的な兵力差をひっくり返して勝利しました。』

『本来、こういう戦いはやってはいけない戦いなんですが、のちに名将と謳われるような武将は、伝説的なそういう戦いをやっているわけですね。
それが信長だったら、「桶狭間の戦い」。北条氏康は「河越夜戦」。
「小よく大を制する」伝説をひとつぐらい持っています。
だけど、3つも持っているのは元就ぐらいなんですね。
そういう意味でいうと、元就は、戦術レベルで軍事で非常に突出した才能を持っていたのかもしれません。』

(以上、「毛利元就 誰も信用しない戦国一の二枚舌」文中より)

本郷先生が仰る通り、日本人好みの「寡を以って衆を討つ」「柔よく剛を制す」という自身の劣勢を覆して、大敵を打ち破るという合戦を繰り広げた信長や氏康、または信濃国(長野県)の元就と同類の弱小国人衆で、これまた下剋上の申し子であった真田昌幸・信繫(幸村)父子は、現在でも名将中の名将として誉れ高いですが、それら名将以上に元就は幾度の合戦で「寡を以って衆を討つ」戦術で大勝利しています。

元就という人物の不思議なところは、年齢が20歳という相当遅い初陣であった上に、約5倍の兵力差をひっくり返して大勝利を遂げたことを皮切りに、有名な厳島の戦いでは、元就は既に59歳という当時では相当な高齢で大軍の大内を撃破、更に尼子氏を滅ぼし名実ともに中国地方の覇者となったのが70歳であるという、最初から最後まで諸事全てが「遅咲きの覇者」という元就のみ持っている魅力でございます。
これほど大器晩成の戦国英雄も珍しいのではないでしょうか。

後に天下統一を果たす徳川家康には、元就と境遇や生き方・死亡年齢(共に75歳が没)、そして異様に戦歴が長い軍人であったなど類似している点が多いですが、家康(当時は元信)でさえも初陣は元服直後の15歳に果たしているのですから、元就の20歳での合戦デビューは、勝ち方が鮮烈であったために余計に際立って見えます。


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元就43歳での吉田郡山城の攻防戦での勝利も大きいです。
毛利元就はこの籠城戦に勝利することによって、他の安芸国内および備後国(広島県東部)の国人衆からの信頼を勝ち取り、後に毛利氏が国人一揆で成り立つ戦国大名として地位を確立した大きな要因となっています。そして元就が謀神・名将として後々まで賞賛され、毛利氏(後の長州藩)が戦国史、更に大仰に云えばその後の日本史の大転換点となったがのが、『厳島の戦い』であります。

前述のように元就が59歳という高齢で、大勝利を治めた「厳島の戦い」は、敵方である大内軍の総大将である陶晴賢が、元就の用意周到かつ巧緻極まる策略に踊らされて、大軍を率いて狭い厳島に誘き寄せられ、毛利軍の奇襲に遭って晴賢は敗死し、事実上の統率者であった晴賢を失った大内氏は急速に衰退し、2年後には毛利に攻められ大内氏は滅亡し、毛利氏の大躍進が始まる。
というのが通説となっています。

これは江戸中期の毛利氏(長州藩)分家である吉川氏(岩国藩)に家老として仕えた香川正矩・景継父子が、長州藩の始祖である元就の活躍ぶりを大仰に著した『陰徳太平記』という軍記物語が出典になっており、これにより厳島の戦いにおける「元就=智勇兼備の名将、晴賢=主人(大内義隆)を弑逆した上、元就の策略に踊らされた猪突猛進の愚将」という評価が定着してまったと思います。
しかし、厳島の戦いが起こった本当の理由は、晴賢がわざわざ元就の策謀に翻弄され、狭い厳島に来て毛利軍と死闘を演じたのでなく、晴賢(大内氏)からしてみれば、『是が非でも厳島を抑えておきたい理由』があり、一方の元就も『何としても厳島を確保しておきたい要地』という両者間の譲れない主張が衝突したものでした。

厳島は、当時から人々から崇拝される信仰の島という精神面を司る霊地であったと共に、戦国期当時は、厳島は瀬戸内海有数の『海外文化および経済物流の集積地』という経済面でも重要拠点あったのであります。
元就vs晴賢の厳島の戦いは、毛利と大内の一大経済戦争であったです。 
 
既に20年以上前、NHKで放送されていた歴史教養番組『堂々日本史』(1996~1999)という名物番組で、毛利元就と厳島の戦いについて採り上げた回「決戦厳島 毛利元就、50歳からの挑戦」(1996年10月29日放送)がありました。
その時のゲストでご出演されていたのが、NHK大河ドラマ「毛利元就」の原作者であった永井路子先生でしたが、先生は大内の大軍勢を率いる陶晴賢が、わざわざ狭隘な厳島に出撃した理由について以下の通りに語っておられました。

『陶は、決して厳島に誘き寄せされたのでないと思うのです。
これはですね、江戸時代にそういう話(筆者注:恐らく「陰徳太平記」のこと)ができて、元就は頭が良い、謀略の大家だったということになりまして、小さな所に陶を誘き出して討ったということになっているのですが、陶晴賢もなかなかの名将(同注:「西国無双の侍大将」と評されるほど)ですから、誘き出されるということではなかったと思うんですね。
「其処(厳島)」そこと思って、其処を取らなければ毛利をやつけられない!という気持ちでゆく。
一方の毛利の方でも、其処を護って陶を倒さなければという気持ちで、つまり四つに組んだ戦いであったと思うんですね。』


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『陶は、何で小さな島に来たんだ?という考え方は、そもそもこの厳島が「どんなに重要なであるか」を忘れた論議でありましてね、陶は誘き出されたのでない。
「其処を取らなければ駄目なんだ」と考えたんですね。
厳島というのは瀬戸内海の富が集まってくる来るのですから、そこを抑える。
つまり厳島合戦は海盗り物語だったんですね。
瀬戸内海全体を見渡して、そのポイントを盗れば制海権が握れると思い、毛利も陶も本当に本気を出して戦ったと言えると思います。』

(以上、「決戦厳島 毛利元就、50歳からの挑戦」番組内より)


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広島湾の西方に位置する厳島は、別名「安芸の宮島」の景勝地として、現在でも年間400万人もの来訪客で栄える日本屈指の観光地(1996年に世界遺産に登録)でありますが、古代より島内にある弥山(みさん)を中心に神が棲む島(山岳信仰)として崇められ、593年、安芸の有力豪族・佐伯氏(後の厳島神社神主家)によって厳島神社が建立され、現在のような華麗かつ荘厳な海上に浮かぶ朱色寝殿造りの社殿として大再建したのが、平安末期の偉人・平清盛でした。

いち早く商業および経済流通の重要性に着目した清盛が、日宋貿易を盛んにするために瀬戸内航路の開発や福原遷都を断行したことは有名ですが、その清盛によって再建された厳島神社は、「海上交通の守護神」としても人々に崇拝されるようになりました。
因みに元就も厳島神社を崇拝していたことは有名であります。

厳島が人々(特に海上交通に従事する人々)に重要視されたのは、上記のような信仰上という精神面のみではありませんでした。
中国大陸および朝鮮との海上交易の大動脈である瀬戸内海の要衝に位置する厳島は、当時の最先端の文化・物資などが集積する寄港地としての『経済的重要拠点』であったのです。

『芸州厳島屏風図』という戦国期当時の厳島の殷賑ぶりが描かれた屛風絵がありますが、その中には、島の沖合には多くの船舶が停泊、島内には多くの商人および人々で賑わう様子が描かれ、中にはとんがりの南蛮帽子をかぶった南蛮商人の姿も描かれています。
上記の屏風絵の内容を完全に信用してしまうというのは眉唾でありますが、厳島が当時から京都や堺などの上方の有力商人たちに重要視されたいたのは事実であります。
その証左として厳島神社末社の千畳閣(豊国神社)には、前述の商人たちが奉納した多くの絵馬が保管展示されており、また絵馬鑑という絵馬見本にも版にも同様な内容が収納されています。

現在では、風光明媚な風情を大いに活かして観光業という現代産業で殷賑を極める厳島でありますが、戦国期当時は厳島が信仰の島ではなく、多くの商人が集う『商業/経済流通の島』として栄えていましたが、厳島が瀬戸内海の商業の島として重要視されていた理由は、島の地理的環境にありました。
それは、瀬戸内海の潮流が関係していました。

瀬戸内海の潮流の速さと急変ぶりは現在でも有名でありますが、厳島の北側、即ち神社地点・本州との海峡は、風穏やかで波の揺れも少ない地理的好条件に恵まれた天然の良港であったのであります。
これが瀬戸内航路を東西に行き交う交易船などの重要中継点となった最大の理由でした。
恐らく平安末期の英傑・平清盛も厳島とい良港について着目し、より交易が栄えることを望んで厳島神社を壮麗に改築したのかもしれません。


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厳島の戦いにてキーパーソン的存在となったのはご存知のように「村上水軍(海賊衆)」でしたが、この勢力は瀬戸内海を航行する船舶から通行料(駄別銭、海関料)や警固料を徴収することを収入源として日本有数の海上勢力となっていましたが、村上水軍は、その通行料を徴収するために瀬戸内に、主に5ヵ所の関所「上関」「尾道」「塩飽(しわく)」「堺」、そして『厳島』を設置していましたが、その中でも数多の船舶・物資の中継地である厳島を最重要関所として重要視していました。
瀬戸内海の潮流・島々など地理を全て知り尽くしていた村上水軍も良港であり富の集積地である厳島の重要性を認識していたことがわかります。

因みに、厳島のように「信仰」と「湾港」という条件を持つ地域は当時から経済的発展を遂げ、その拠点を抑えた人物は強大な勢力となっています。
それが尾張の織田信長であります。
信長は、父祖が抑えた「津島」「熱田」という門前町と海運拠点として繁栄を極めていた2つ拠点から得られる莫大な経済力を背景として勢力を構築していきました。

「信仰と湾港を兼ね備えた地点は莫大な富をもたらす。」この事は信長の天下への勇躍、そして、厳島の戦い以前(1555年以前)まで、安芸備後の国人連合衆という強権的ではない新興戦国大名でしかなかった毛利元就が、本戦後に厳島の支配権を確固たるものし、一代で中国地方の覇者になったことを思えば、決して絵空事の論ではないと筆者は思います。


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厳島の合戦は、大勢力であった晴賢が倒れ、弱勢力である元就が大勝利したことは周知の通りでありますが、何故、晴賢(大内)は敗れてしまったのか?それは前述の永井路子先生が番組内で仰っておられた「海盗り合戦」で必要不可欠な制海権の把握を、元就は成功し、晴賢は大誤算で失敗したという理由に帰することになります。
その制海権とは何か?それも前述で登場した第三の勢力・『村上水軍』の存在でした。
晴賢は村上水軍に対して非常にマズイ一手を打ってしまい、結果、制海権を失い、厳島の戦いで敗北してしまったのです。この詳細は次回の記事にでも紹介させて頂きます。

(寄稿)鶏肋太郎

毛利元就 謀神ならぬ優秀な経済戦略家
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