毛利元就、「海盗り合戦(制海権)」を制し、厳島合戦で大勝利する

毛利元就

筆者が執筆させて頂きました以前の拙作で、智将・毛利元就が一介の国人領主から中国地方の覇者へと急成長を遂げる契機となった「厳島合戦(1555年)は、経済戦争が最大の理由であった」ということを紹介させて頂きましたが、今回はそれまで安芸・備後国(共に広島県)の中小勢力、国人一揆による新興戦国大名に過ぎなかった劣勢の元就(動員兵力:約4千)が、当時中国地方最大の勢力であった周防・長門国(共に山口県)を本拠として、北九州にも勢力を持つ名門・大内氏の全権と大軍(動員兵力:約2万)を把握する陶晴賢を、どのようにして厳島合戦で撃破したのか?ということを探ってゆきたいと思います。
 
 1551年、毛利氏の主君であった大内義隆は、重臣・陶晴賢(当時は隆房)をはじめとする大内氏武断派の謀反・大寧寺の変によって討たれ、義隆の後釜には彼の甥に当たる大友晴英(即ち大内義長)が据えられ、西国の雄・大内氏の実権は晴賢に把握されることになりました。しかし、謀反によって主君を弑逆した上、強硬な政策を推し進める独善的な性格が強い晴賢に反発する大内氏配下の国人領主たちが多く存在しました。
 特に、先祖代々領地争いを巡って陶氏と仇敵関係にあり、旧主・義隆の姉婿で三本木城(後の津和野城)に拠る石見国(島根県西部)の有力国人領主・吉見正頼の晴賢に対する反発は強く、1553年、正頼は晴賢打倒のために挙兵することになり、大寧寺の変から厳島合戦以前の晴賢は、造反した吉見氏をはじめとする反勢力の対応に苦慮していました。




 
 大内氏隷下の新興戦国大名として、安芸・備後の国人領主層のリーダー的存在であった毛利元就は、大寧寺の変の時は晴賢側に加担し、安芸や備後国内の親義隆派の国人領主たちの諸城を攻略。それらを傘下に組み込んでゆき、毛利氏の勢力基盤を着実に固める一方、長年、大内・毛利の宿敵である山陰の強豪・尼子氏(東方から)の脅威を防ぐ役目を担っていました。
強大な大内氏の権威を背景にして、安芸および備後の国人衆たちを取り込み毛利勢力を伸ばしてくる元就に対して、強い警戒心を抱くのようになったのは、誰であろう大内の実権を把握している晴賢でした。
 晴賢は味方であるはずの毛利氏に対しても強い締め付けを行うようなり、1552年10月に元就をはじめとする大内側の国人衆が攻略した尼子氏に属する備後の旗返山城(三次市)の領有権を晴賢が横取りし、自身の重臣・江良房栄を旗返山城の城主にしたことが嚆矢となり、晴賢と元就の関係は悪化するようになっていきました。この周防に拠る晴賢と安芸に拠る元就の対立構造が、所謂「防芸引分」と言われていることは有名であります。
 強いて現代風に譬えるなら、名門大企業の本社重役(晴賢)が、傘下の下請会社および支社(元就や国人衆)をはじめとする現場人が苦労して開拓した販路や挙げた収益の手柄を、本社という後方から来てとってしまうという「大企業の下請け会社イジメ」の描写に酷似しています。
 晴賢という人物は、後世「西国の侍大将」と謳われるほどの知勇兼備の武将であったにも関わらず、大内氏という室町期以来、西日本最大の名門戦国大名の筆頭重役として代々仕えてきた格式高い家柄を出自としたことが主因なのか、(先述のように)独善的かつ名門意識が異様に強かったに違いなく、最終的にその性格が大きく災いとなり、大内にとっては強い味方であるはずの元就、そして瀬戸内海上に君臨する村上水軍(海賊衆)に対しても、~正しく名門企業の独善的な重役らしく~、強弁な統制・締め付けを敷くことによって彼らへの支配権強化を図りましたが、それが却って裏目に出てしまい、元就および村上水軍の離反・厳島合戦へ進展と自身の敗死、そして大内氏の滅亡(晴賢と大内氏にとって最悪の結末)へと繋がってゆくのであります。
 備後旗返山城の領有を巡って晴賢と元就の関係悪化が顕著となってゆく過程で、1553年に前述の晴賢と因縁関係にあった石見三本木城の吉見正頼が晴賢に造反し、晴賢は三本木城攻めに釘付けになってしまいます。晴賢は、元就に吉見討伐に加勢するように要請、一方の吉見も元就に対して反晴賢の挙兵を催促します。
 当初元就は、どちらの要請に応えることなく様子見の態度を決め込んでいましたが、その元就の中途半端な態度に業を煮やした晴賢が、元就を通さず安芸備後の国人衆たち直接吉見討伐の援軍を要請しました。それまで安芸備後の国人衆の統率権を旧主・義隆以来、一任されてきた元就にとって、諸事権高な晴賢が行った行為は、明らかに国人衆リーダー元就の立場を否定した越権的かつ非礼行為であります。この晴賢の元就に対する仕打ちを見ても、晴賢の独善的な態度が目立っています。
 元就嫡男であり当時既に毛利本家の家督を継いでいた毛利隆元の強い勧めも後押しとなり、1554年、遂に元就は毛利方の安芸備後の国人衆から成る約3千の軍勢を率いて晴賢(大内)に対して挙兵。合戦の舞台はいよいよ厳島合戦に移ってゆきます。因みにこの時、毛利元就59歳、陶晴賢は34歳。「現場叩き上げの中小企業の老人社長」「名門大名の有能若手重役」の対決であります。




 
 普段は、諸事用意周到な慎重居士に徹底するので、優柔不断かのように見えてしまう元就でありますが、いざ決断した後には果断かつ異常な速さで行動を採っています。その例が、反晴賢の挙兵した直後に、それまで大内氏支配下にあった西安芸(現在の広島湾沿岸)の佐東銀山城・己斐城・桜尾城・草津城をはじめ瀬戸内海航路の一大経済流通拠点であった厳島を急襲、それらの全ての城砦や重要経済拠点を「僅か一日で占領」している軍事行動の速さであります。
 余談ですが、「三国志演義」の主人公、「超世の英傑」(時代を超えた英雄)として有名な曹操。彼の天才参謀であった郭嘉は『兵は神速を貴ぶ』という電光石火の行軍を曹操に対して助言している場面がありますが、名戦略家であり類稀なる戦術家の元就は正にそれに違うことなく実践したことになります。
 上記の元就の迅速かつ的確な行軍は、やはり用意周到な元就の事前の下準備および根回しが功を奏した顕れであります。佐東銀山などの4つ諸城の大内方の城主たちは、毛利軍の一翼を担っていた元就次男の吉川元春、その義父である熊谷信直の調略(降伏工作)を事前に受けており毛利軍に全く抵抗することなく降伏。
 厳島も毛利方の武家商人・堀立直正という人物を交渉人として島内の豪商などを説得行い毛利氏の傘下に治めて、鮮やかに大内方から厳島の奪取に成功しているのですが、実は元就は晴賢と決裂する以前から経済流通の要衝である厳島の重要性を認識しており、厳島の商人や有力者に酒肴(原文:酒飯)などを贈るといった懐柔策を施していたのであります。迅速な厳島占領の要因は、堀立の説得力もあったと思われますが、何よりも元就の事前工作(プレゼント作戦)が最大の要因であったと思われます。
 やはり智将・毛利元就が後世に「謀神」と謳われるほどの所以は、上記のような根回しや下準備の素晴らしさにあることがわかります。『謀多きは勝ち、少なきは負ける』という言葉を元就が残しているのは有名でありますが、『謀』と聞いて、何やら裏切りや暗殺といったドス黒いイメージがどうしても脳裏から離れないのですが、謀とは即ち、「情報収集」や「他者との友好関係構築」などいった根回し/事前準備とも言えるでしょう。
 対して決して無能ではないのですが、壮年武将・晴賢は、そのような器用な芸当には慣れていなかったらしく、その証左として石見の吉見などの国人衆たちから反発を受けてしまっています。普段から上司・部下や同僚の人たちと仲良く(根回し)しておかなければ、いざという時には自分の良き協力者とはなってくれませんので、やはり元就が実践した「謀=根回し」は大切でありますな。

 安芸の零細国人領主から身を興しつつ、幾多の艱難辛苦を味わい何よりも「他勢力との協調性」が大切であるということを痛感している根回し上手の中庸的な老将・毛利元就に比べ、代々強権的な戦国大名・大内氏の筆頭重臣として仕えて、元就を含めて山陰山陽の多くの国人衆が、主君である大内や自分に平伏する姿を見て育ったので、独尊的思考が強くなった若手優秀重役・陶晴賢。
 育った環境があまりにも違ったために、厳島合戦における両者間の対外政策に大きな開きが出来てしまったことは仕方がないのですが、その結果が最も顕著となったのが、当時、芸予諸島を根拠地として、瀬戸内海の制海権を把握していた海の王者・村上水軍の去就(毛利氏に加勢したこと)であります。村上水軍を味方に付けるということは、正しく『海盗り合戦』を制することを意味しています。
 
 古代より中国大陸および西欧諸国(南蛮)との交易の大動脈路であった瀬戸内海。その海域には、何と大小3千の島々が存在すると言われ、ほぼ中央部に位置する芸予諸島を本拠地とし、現在の山口県上関から香川県塩飽諸島の東西約170kmという広大な海域に君臨していたのが、『村上水軍』であります。当時の快速船「小早」を活かす優れた機動力、手投げ弾「焙烙」という強力な火力を有した最強の水上勢力ではあることは皆様もよくご存知の事だと思います。
 元来、水軍/海賊の一大拠点であった瀬戸内海でありますが、戦国期にその最大勢力とされた村上水軍こと瀬戸内の村上氏は、信越地方の名将・村上義清で有名な信濃村上氏(信濃源氏)から派生した氏族と言われ、平安末期頃に、村上定国という人物が瀬戸内海(塩飽諸島)に土着し始め、南北朝期になると、水軍としての村上氏の動き(海上警固)が活発になります。
 戦国期の村上水軍は、「能島村上氏」「来島村上氏」「因島村上氏」の所謂、『三島村上氏』が其々独立的に存在していたことは有名ですが、表向きは能島村上氏が3家の頭領格となっており、その当主が宣教師ルイス・フロイスをして『日本最大の海賊』と言われた村上武吉(1533~1604)であります。
 日本最大の海賊と称せらただけに、武吉も小説などの創作世界でも主要人物として扱われることがあり、以前は、社会経済関連の大作を多く著された城山三郎先生の長編小説『秀吉と武吉』(新潮文庫)があり、近年では和田竜先生がお書きなられ話題になった時代小説『村上海賊の娘』(新潮社)が、本作の主人公・景の父親として登場しています。
 



今更ですが、水軍の別称および古称とされる『海賊』(英名:pirate)という文字を見てしまうと、(映画やドラマなど影響が大きいのか)、航海をしている船舶を発見すると、情け容赦なく問答無用で襲撃し、人や物資を奪略するという「海上の暴力集団」という恐ろしい武装勢力というイメージがつきまとってしまいますが、この暴力的行為は海賊衆の軍事行動おける僅か一片の顔である上、その行動は飽くまでも最終手段であるに過ぎないのです。
 本当は、海賊というのはもっとバラエティーに富んだ勢力であり、「陸の大名への水上兵力(軍船)の提供」、「軍需物資・兵力の海上輸送」、「有料で商船の警護および先導役」、そして「国内外での貿易活動」の多方面で大活躍するという、現在の「総合商社」のような存在であったのです。
 戦国期における「海賊=商社」という勢力は、瀬戸内海の村上氏のみではなく、日本海側の北出羽国(秋田県)の十三湊を中心として勢力を伸ばしたとされる「安東氏」他に、関東の後北条氏の水軍の将であった「梶原氏」、甲斐武田氏が武田水軍を設立した際、その一翼を担った「小浜氏」なども、戦時には水上兵力や物資輸送で活躍する反面、平時には当時から国内有数の商工業先進地であった伊勢国(三重県)と東国間を結ぶ海上交易といった商業流通業を活発に行う一大商社であったのです。そして、その最大勢力で高名であったのが、当時最先端の物資が入る海外交易の玄関口であった瀬戸内海を本拠としていた村上氏であったと言えるでしょう。
 因みに、上記の梶原氏や小浜氏などの東国海賊と商業活動については、日本中世史学の大家であられた歴史学者・永原慶二先生(一橋大学名誉教授)の素晴らしい研究発表がございますが、今記事では、これらについての詳細な紹介は割愛させて頂き、また別の機会に紹介させて頂きたいと思っている次第でございます。

村上水軍について話を戻します。

 戦国期の能島・因島・来島の三島村上水軍は、能島の村上武吉を名目上の当主としているも、各々独立勢力の形で外交政策を行いつつ瀬戸内海に分立、同海上の「制海権」と「地理環境」を完全に掌握していました。三島村上氏は、それらの強みを大いに活かして、上関~塩飽諸島の3箇所に海関(関所)を設け、瀬戸内海を航行する国内外の船舶(交易船)から通行料金『帆別銭/駄別銭(警固料とも)』を徴収し、それを拒否した船舶に対してのみ軍事行動(略奪)を起こすという徴収システムを構築して、村上水軍の軍事および商業活動における資本金を稼いでいました。
 これだけでは村上水軍に対して荒々しいイメージしかありませんが、帆別銭を支払った船舶に対しては、村上武吉の花押が入った過所旗(「上の字」の海上パスポート、現存している過所旗は、国指定重要文化財)が譲渡され、これを掲げた船舶には瀬戸内海を安全に航行させていました。また三島村上氏は、瀬戸内海を航行する船舶を無事に航行させるために、他の海賊衆から船舶を防衛する『海上警備』と『水先案内人』の役目を担っていました。即ち現代風で言えば『ガードマン兼ナビゲーター』いう職業であります。
 現在でも潮流の変化が激しい上、数多な島々で海域が複雑に入り組んでいる芸予諸島沖ですが、先述のように瀬戸内海の制海権および地理環境を把握している村上水軍は、その2つの強みを活かして、有料で航行する船舶の安全を保障することを生業としていたのであります。日本屈指の強力な海上兵力を有している村上水軍は、『金を貰う代わりに、船の安全な航海を保証します』という現在でも通用しそうな至極真っ当な仕事で財源を築いていたのであります。正しく海に広大な領域を持つ「海の王者」であります。
 時代はかなり降りますが、江戸幕末~明治維新における偉大な教育者および思想啓蒙家であり、(筆者も大好きな)現・1万円日本銀行券の顔でお馴染みの福澤諭吉は、代表作『学問のすすめ』の「第7編・国民の職分を論ず」で、国民の義務として「納税」を挙げており、その主旨をい以下の通り述べています。




 
 『1年の間にわずか1、2円の税金を払って政府の保護を受けて、夜盗や押込みの患いもなく、ひとり旅行に山賊の恐れもなくなって、安穏にこの世を渡れるのは大いに結構である。およそ世の中に割の良い商売あるが、税金を払って政府の保護を買うほど安い商売はない』(「第7編 第2 主人の身分」文中より)

 偉大な福澤先生の上記の名文(納税の義務)を拝借させて頂き、村上水軍(政府)、瀬戸内海を通る数多な船舶を(国民)として置き換え記述すると、村上水軍は通行料の支払いを船舶を徴収して、水軍力を高め、その力で船舶の保護に務め、一方の支払う側の船舶は、通行料を支払うことによって航海における「安全と保障」を買ったと言えるでしょう。村上水軍と瀬戸内を航行する船舶の関係には福澤諭吉の言う所の国民の納税の義務を彷彿させるのであります。(ただ、船舶が通行料を支払いを拒否すると、忽ち水軍が恐ろしい奪略勢力となってしまうという点が、明治近代国家の政府と国民関係の違いでありますが)

 歴史学者・磯田道史先生が司会されているお馴染みのNHKBSプレミアム歴史番組『英雄たちの選択』で、海賊王・村上武吉を主役で取り扱った回(「屈するか?あらがうか? 海の民誇りをかけた選択~海賊王・村上武吉vs天下人・豊臣秀吉~」)で、磯田先生は、『(瀬戸内の海賊衆は)、巨大なシーパワー(SeaPower/海上権力)を持っていますから、周囲から恐れられていますし、逆に味方に付けると有難い存在だったろうと思うんです』と仰られており、またゲストコメンテーターとしてご出演されていた経済学者・山田吉彦先生(東海大学海洋学部教授)は、村上水軍が保持していた優れた水軍力と海上権力を元手とした通行料徴収、その代価としての船舶航行の安全保障するビジネスについて以下の通り仰られています。

 『3家の村上水軍が連携して、瀬戸内海の地の利を占めることによって新しいビジネス(即ち船舶安全保障)を展開することが出来たということは、1つのポイントだと思います。(瀬戸内海という)激しい潮流の中で、船を操るというのは「特殊技能」です。その技能を「海上警備力」という商品にしてゆく。(中略)そして、関銭(通行料)を徴収する、或いは航行安全を護ってあげるというビジネスを展開していき、その先にはまた航行安全を護れば、交易が活性化し、その利益がこの地域に落ちることを発見しました。海を1つのビジネス体として3家が結び付くことによって、新たしい社会、新しい経済が生まれていくというところにポイントがあったと思います』

 上記における山田先生の仰った事を受けて考えてみるに、武吉を中心とする三島の村上水軍は、瀬戸内海の荒波で培った技術力や知恵を活かして、有料で船舶の安全保障を行ったという、至極真っ当な海上ビジネスであったことであることがわかります。しかし、この村上水軍のビジネス形態を理解ぜずに、この勢力の既得権益であった通行料徴収の廃止を強行したのが、大内氏の実権を握っていた重臣・陶晴賢であります。
 村上水軍は、戦国期には名目上、当時西国最大の戦国大名・大内氏に従属している立場でありましたが、瀬戸内海に君臨する確固たる独立勢力であることは間違いなく、名門大企業・大内氏の海洋部門の外部重役(客分)のような立場であったと思います。そのことを全くと言っていいほど考慮せず、村上水軍の通行料徴収権を有無を言わせず廃止させたのが晴賢であり、この相手方の損得を勘定せずに晴賢は村上水軍の恨みを買ってしまったのです。
 安芸備後の毛利元就の強襲によって、大内氏の支配下であった広島湾の諸城や厳島などの要地が奪われ、厳島奪回を目的とする晴賢は、なぜ瀬戸内海(芸予諸島)の制海権を有する村上水軍の神経を間違いなく逆撫でする通行料徴収権を剥奪するような行為を断行してしまったのか?それはやはり晴賢の育った環境によって形成させた人格が主因であったとしか思えないのであります。

もう既に20年以上前に放送されていたNHK放送の『堂々日本史』という歴史教養番組があり、その中で毛利元就と厳島合戦関連を取り扱った回(「決戦厳島 毛利元就50歳からの挑戦」)がありました。
 放送当時NHK大河ドラマ『毛利元就』の放送を前年に控えており、その理由で回が組まれたと思うのですが、その時のゲスト出演が、大河ドラマ『草燃える』『毛利元就』の原作者であられた永井路子先生でした。永井先生も史料に基づいた上で、読者を惹きつける文体で多くの作品をお書きになられており、そういう面を鑑みると司馬遼太郎先生や陳舜臣先生といった現代を代表する歴史家の方々を彷彿させるものを感じると思っており、筆者も永井先生のことも深く尊敬している1人でございます。
 その永井先生が堂々日本史にご出演された際に、陶晴賢が何故、村上水軍の離反を招いてしまうという先述の通行税徴収権廃止を断行してしまった理由について以下の通りに仰られておられます。

 『これは、「大企業の驕り」、と言ってもいいかもしれませんね。その村上を締め付ければ、村上が参った、と言うと思ったのでしょう。陶晴賢の過信というか、計算違いですね。』

 代々続く名門大企業の筆頭重役の家柄に育ち、その企業ブランドの権威のみがトップであるという事を信じて疑わない独善的な晴賢を永井先生は上記のように評する一方、村上水軍の懐柔に成功した苦労人・元就に対しては以下のように評しています。

 『そこへゆくと元就というのは、妥協性があるというか、もう少し現実的ですよね。現実的に「皆にも良くしよう」とか計算しつつ、じっくり考えて約60年耐えてきたのですから、そこの経験の積み重ねが、村上も引き寄せる原動力になったと思いますね。』

 「敵の敵は味方」であると。つまり村上は、「陶憎し」、という気持ちがありますね。警固料徴収権を取り上げられたのですから、これは収入減は大変なものですよ。ですから、そういう風に思っている村上を味方に引き入れようと、毛利元就としては考えていて、(村上に)味方に付いてくれと頼んだわけですよね。』

(以上、「決戦厳島 毛利元就50歳からの挑戦」内より)

 本来、独立勢力と言え自分の味方であるはずの村上水軍を屈服させようとする大勢力である謀少なき晴賢でありましたが、逆に離反を招き、肝心の制海権を失ってしまった一方、弱者の謀多き元就は劣勢を挽回するために、晴賢と決裂する以前から村上水軍との外交パイプラインを構築し、友好関係を結んでいました。
 その村上水軍、特に因島村上氏との外交窓口として活躍したのが、元就の三男であり水軍衆として勢力を誇っていた小早川氏当主の「小早川隆景」、その重臣であった「浦(乃美)宗勝」でありました。隆景の外交能力の高さは、父・元就に匹敵するほどと謳われ、後年の天下人・豊臣秀吉も隆景の器量を高く評価していたことは有名であります。
 元就は、その隆景や宗勝など所謂、小早川水軍衆を通じて同業者・村上水軍と接触を持っていたのであります。特に当時、因島村上氏の6代目当主であった村上吉充は宗勝の妹を正室にしており、小早川と毛利とは緊密な関係であり、厳島本戦の折の因島村上氏は、隆景率いる小早川水軍の一翼として参戦、毛利軍の勝利に貢献しています。また、元就は1554年に、来島村上氏の当主であった村上通康にも自身の孫娘(五もし/宍戸ゑい壽)を嫁がせ、来島村上氏と姻戚関係を結び、毛利方に引き入れています。来島水軍も厳島合戦に参戦したと言われ、後年の元就が『来島の加勢で我々の首がつながった』と書状で述懐していることを思うと、来島水軍も本戦では晴賢相手に活躍したと思われます。




 
 『(元就は)前から村上水軍とは仲良くしようと工作していました。と申しますのは、元就にしても瀬戸内海は「すごい宝の海」だとわかっていたので、ここに出たい、という気持ちはあるんですね。自分の息子である隆景を小早川に養子にやります。
 この小早川という家は、元々水軍の家でしてね、勿論村上水軍とも仲が良いわけです。とにかく親戚と言っていいいくらい仲良し、ということがありますから、一朝一夕に「村上水軍に味方になってくれ」とお願いしたわけではなく、隆景が養子に行ったのは相当前のこと(筆者注:1543年に小早川に養子入り。隆景12歳)ですから、それ以来ずっと下工作を続けていたということが、ようやくここで(同注:1555年の厳島合戦)実を結んだということではないでしょうか。』

 『(ずっと以前から将来に向けて布石を打っていた事が)元就の凄い所で無駄な手を打っていないですね。その時から陶とやるかな?というほどは思っていなかったでしょう。ただし海は欲しい(海の利権)と思っており、そういう時は、村上と仲良くして船を護ってもらわなければ、自分たちも利益は貰えないから、村上を敵にしては拙い、仲良くしようということは考えていたでしょうね。』

 上記の2文も先述の『堂々日本史』における永井先生が仰った事でありますが、 謀多き、という陰気なイメージを匂わせる言葉よりも、現代風に言えば「途轍もなく用意周到」な元就が村上水軍の協力を取り付け、厳島周辺の制海権(SeaPower)を把握。これが厳島合戦の大きな勝因となっています。
 最近、惜しくもお亡くなられた偉大なプロ野球選手であり、智将・名監督でもあられた野村克也氏が、監督時代に選手たち相手に、よく語った言葉の1つに『一に準備、二に準備』という至言がありますが、厳島合戦に向けて元就が行った下工作というのは正しく「準備、準備」の積み重ねであり、その結果が、その後の毛利氏および日本史の大転換点となった厳島合戦の勝利に繋がっていったのであります。

 一方、水軍および制海権を喪失してしまった晴賢であるにも関わらず、既に毛利方となっていた厳島を奪回を敢行するべく、大軍(1万~2万?)を率いて渡海を強行(1555年9月21日)。厳島内の軍事拠点である毛利方の宮尾城(城将:己斐直之・坪井元政 守備兵:約5百)に猛攻を加えますが、最後まで宮尾城を陥落させることは出来ませんでした。
 大軍の晴賢が何故、僅か5百の兵力しかいない宮尾城を落とすことが出来なかったのか?毛利兵の奮戦奮闘も勿論あったことは間違いないのですが、何よりも制海権を有していた毛利軍が、配下の熊谷信直を将とする水軍を組織して宮尾城(三方を海に囲まれていた地の利もあった)に援軍を送り込むことに成功していることが大きいのです。
 元就(当時は厳島対岸の地御前に布陣)が、宮尾城に向けて援軍を差遣することが可能であったのに対し、厳島本島を大軍で占めているはずの晴賢軍は、水軍と制海権を有していなかったばかりに海上から来る毛利援軍を阻止出来なかったのです。
 厳島合戦で、晴賢軍の有力武将の1人として参戦し、晴賢共に戦死することになる弘中隆包(隆兼とも)は、筑前国(福岡県北部)の水軍武将・帆足氏に宛てた書状で、『毛利が船で宮尾城に援軍を入れて来たが、我々には警固(水軍)衆が無いから、どう仕様も無い。』という内容が書かれてあるのであります。
 晴賢本人をはじめ大内の大軍が厳島に渡海しているので船団を保有していたのは確実であります。事実、大内方に三浦房清・宇賀島・桑原(3将とも厳島合戦で戦死)など水軍衆が晴賢に従軍しているしているのですが、この水軍衆も所詮は瀬戸内海全域に君臨する村上水軍とは比較にならないほど小規模な船団であったのもまた確実なことであり、毛利水軍の奇襲を受けた際に、晴賢などの大内方の主要重臣を厳島から脱出させることも能わずして壊滅してしまっていることが、本戦における大内方の水軍衆およびSeaPowerの脆弱ぶりを物語っています。
 この点を鑑みても、晴賢が自身の独善的な政治的態度のために、村上水軍の恨みを買ってしまい敵に廻してしまったことが、軍事的不利を招いてしまっているのであります。そして、制海権を有していない晴賢軍の正しく致命傷となったのは、元就率いる陸地からの奇襲軍(第一軍)、小早川隆景や村上水軍を主力とする船団(第二軍)の挟撃を受けた時(1555年10月1日)であります。
 多くの船団を有していない晴賢軍は退路を封鎖されてしまい、晴賢および弘中隆包といった大内方の有力武将をはじめ多くの将兵が戦死し、これ以降、大内は急速に衰退。厳島合戦の2年後の1557年、毛利軍の侵攻(防長経略)によって大内義長は孤立無援のまま自害。室町期以来の名門戦国大名・大内氏は滅亡しました。




 
 厳島合戦の前哨戦と言うべき、「折敷畑の戦い(明石口の戦いとも。1554年)」や「仁保島城の攻防戦(1555年7月)」などで、晴賢が差遣した大内方の武将が毛利軍相手に敗戦する戦況が重なったことに対する苛立ちがある上、当時の瀬戸内海交易の重要拠点の1つであった厳島を一刻も早く元就から奪取したいという焦燥感に駆られる晴賢の心境もわかります。しかし、海に四方を囲まれた厳島という狭小な地を戦場するにも関わらず、自勢力の水軍や制海権(いわば退路や補給路)が脆弱な状態で、厳島に渡ってしまったということが、結果的に晴賢ひいては大内氏の命取りになってしまったのです。
 上記の状況で晴賢が厳島を奪回するのなら、大内の軍勢の総大将というより、もっと規模の大きい戦国大名・大内氏という事実上の支配者という重責を担っている晴賢は、やはり渡海せずに現在の岩国市辺り(事実、晴賢は渡海する前岩国市内にある永興寺という臨済宗の寺院を本陣としていましたが)に腰を据え、大内の水軍衆の充実を図るか、それとも厳島には(敗戦を重ねているとはいえ)、弘中隆包など他の重臣および三浦などの大内水軍衆を派遣するに留め、晴賢自身は陸地で大内軍の総指揮をするべきであった、と結果論となってしまいますが、僭越ながら筆者は思ってしまうのです。そしたら、少なくとも自身の死と大内氏の滅亡という最悪な結果は絶対に防げたはずです。
 
 先程から何度も記述させて頂いておりますが、当時でも最有力であった戦国大名・大内氏の重臣として育ち、その大内の強大な力、そしてその勢力を牛耳っている自分自身の力をも過信し、周囲に対して独善的かつ強弁的な姿勢を採り続け、孤立化して滅びっていた陶晴賢。
 その強過ぎる大将というべき晴賢の孤立化状態を上手く利用して、巧妙な根回しと的確な軍事行動の結果、厳島合戦で晴賢と大内の大軍を屠った後、大内氏を滅ぼし、一躍中国地方の大勢力となった毛利元就。
 後世、「謀神」として有名になる元就が厳島合戦以前に施した代表的な下工作として、「晴賢の重臣・江良房栄の謀殺」「元就の重臣・桂元澄の偽装投降策」が双璧として挙げられますが、何よりも決定打となったのが、晴賢や大内と雌雄を決する以前から村上水軍と誼を通じ、厳島合戦ではその勢力をしっかりと毛利軍の味方として、厳島内の晴賢とその大軍の動き(退路)を封じ込めたということでしょう。
 上記のように、元就が決して一時しのぎの「付け焼刃的」策略によって厳島で勝利したのでなく、以前から独立心旺盛である海の大名・村上水軍に対して下工作(親睦外交)を行っていた『根回しの良さ』が、元就が後世「謀神」と謳われる大きな所以ではないでしょうか。

 『兵法は平法なり』(香取神道流開祖の剣豪・飯篠家直(長威斉)の遺訓)

 『安きに居りて危うきを思う(居安思危)』(中国古典「春秋左氏伝」譲公十一年の項より)

 上記の2つは、元就や晴賢以前の人物が遺した訓戒でありますが、2つに通じる意味を要約すると『普段の心掛けや行いが大事である』ということであります。普段の行いや他人に対する気配りを怠る人には、いざ緊急時になると誰も力を貸してくれません。西国の侍大将と言われたほどの晴賢のような人物なら、それぐらい事は分かっていたのでしょうが、厳島合戦では、敵方である元就が晴賢以上に、普段の心掛けと行いが良かったということが大きく作用し、2人の明暗を別けたと強く思うのであります。そう思うと、決して元就や晴賢のみの事柄だけで済む他人事ではなく、我々現代人も、普段から様々な事に注意を払いつつ生活しなければいけないと身につまされるのであります。

 余談ですが、晴賢を厳島にて奇襲し大勝利したのを契機となり、西日本最大勢力へと成長してゆく西の毛利氏、一方、厳島合戦の5年後の1560年、当時、東海地方の最大勢力であり、大内氏と並んで戦国期有数の名門戦国大名であった今川義元の大軍を奇襲作戦で撃破したこと一大転機となり、天下の覇者へと駆け上がってゆく東の織田信長
 西の毛利、東の織田、共に戦国史、その後の日本史に多大な影響を与えた双璧が、日本人好みの「小良く大を制す」という奇襲作戦の勝利によって巨大化していったことが誠に面白い点でございます。




 
 更に余談を許して頂くと、我々が普段の会話でよく使う『備えあれば患いなし(有備無患)』という名句(格言)の出典が、前掲の中国古典「春秋左氏伝」からであるということも付け加えさせて頂きます。即ち以下の通りであります。

 『安きにありて危うきを思う。思えばすなわち備えあり。備えあれば憂いなし 』

 これが原文でございます。

(寄稿)鶏肋太郎

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