佐竹義昭 なかなか合戦では強かった佐竹氏

佐竹義昭 なかなか合戦では強かった佐竹氏

佐竹義昭(さたけ-よしあき)は、戦国時代の1531年に、常陸・太田城主である佐竹義篤の次男として生まれました。
母は常陸・小田城主である小田成治の娘です。

兄に佐竹義友がいましたが、側室の子であったため、正室の子である佐竹義昭が次期当主と定められます。
この頃の佐竹家は、岩城成隆・江戸忠通ら周辺勢力から侵攻を受けており、佐竹一族である高久城主・高久義貞や部垂義元も反旗を翻しました。
しかし、父・佐竹義篤(16代)は、伊達稙宗の仲介を受けたり、小田政治の力を借りるなどして、乗り切っています。
江戸忠通を従属させ、常陸北部を統一して佐竹家は戦国大名として認められるようになりました。
そして、1545年に父・佐竹義篤(39歳)が死去すると、14歳くらいの佐竹義昭が家督を継ぎ、佐竹氏17代目となりました。


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正室は岩城重隆の娘(宮山玉芳)で、1547年に佐竹義重(18代当主)が産まれています。
継室は、大掾慶幹の娘です。

しかし、まだ若いため、あまく見られたようで、それまで佐竹氏に従っていた周辺の勢力が不穏な動きを始めます。
1547年には、江戸忠通が再び謀反を起こしましたが、降伏させ、常陸の中部も支配域に納めました。
1551年には、北条氏康に圧迫されていた関東管領上杉憲政が佐竹家に支援を要請しましたが、断っています。
関東管領の役職と、上杉姓を譲るとまで言われたとされていますが、清和源氏・新羅三郎義光からの佐竹氏の家名を優先したとされます。

1557年、宇都宮氏が内紛で滅亡の危機にあったところ、援軍として5000を出し、飛山城に入ると宇都宮広綱を支援し、宇都宮城の奪還に協力しました。
そして、佐竹義昭は次女・南呂院(なんりょいん)を宇都宮広綱に嫁がせています。
1558年、妻の父である陸奥・大館城主の岩城重隆が侵攻した際には、小里で勝利すると有利な和睦を結びました。
また、小田氏治の常陸・小田城を攻め取っていますが、以後、小田城の攻防は、奪ったり、奪われたりを繰り返すことになります。

1560年、結城晴朝を攻略し、また、白河晴綱の寺山城も占領しました。
1562年には、春日山城の上杉輝虎(上杉謙信)と同盟を結ぶと、下野・小山城を攻めています。

まだ32歳の佐竹義昭でしたが、この1562年に、長男・佐竹義重に家督を譲ると隠居しています。
そして、継室に大掾貞国の妹を迎え、その大掾氏の本拠地である常陸・府中城に移りました。
ただ、佐竹義昭は生まれつき体が弱かったようで、自分の死期を悟っていたのかも知れません。
引き続き、実権は握って、長男・佐竹義重を後見しましたが、隠居してから3年後の1565年に35歳の若さで死去しました。


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同じ年に、織田信長犬山城を攻略して尾張統一を果たしており、佐竹氏も難しいかじ取りを迫られます。
トップの写真は、常陸・府中城です。

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