藤原範茂とは
藤原範茂(ふじわら-の-のりもち)は、鎌倉時代前期の公卿で、藤原範季の次男として1185年に生まれました。
母は、平教子(平教盛の娘)です。
父・藤原範季は、政治家として有能であり、平清盛との平治の乱にて敗れた源義朝の6男・源範頼(源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄)を保護した人物としても知られます。
また、藤原範茂の姉・藤原重子は、後鳥羽天皇の寵を受けて、守成親王(のちの順徳天皇)を産んでいます。
1198年、藤原範茂は14歳前後で、早くも従五位下となりました。
その後、肥前守、左衛門佐、左兵衛佐、左近衛少将と武官としての役割を歴任しています。
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1209年には、従四位下、その後も左近衛中将、蔵人頭を経て、1220年には従三位・参議となって公卿に列しました。
1221年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒の兵を挙げ、執権・北条義時追討の院宣を発した「承久の乱」になると、藤原範茂は、計画段階から加わっていたようです。
これに対して、鎌倉幕府の北条義時、北条泰時、北条時房、大江広元、三浦義村、安達景盛らは、いち早く、東海道、東山道、北陸道の3方向から、京へ幕府軍を向けました。
幕府軍の出撃を予測していなかった後鳥羽上皇ら押し込まれ、最後の抵抗となった宇治川の戦いに、藤原範茂も自ら出陣しています。
鎌倉幕府軍が京になだれ込むと、後鳥羽上皇は、藤原秀康、三浦胤義、山田重忠らを御所に入れず、乱は朝廷勢の大将・藤原秀康、三浦胤義らが勝手に考えたこととして、六波羅に逮捕するように伝えました。
そのため、藤原範茂も鎌倉勢に捕縛されたと言う事になります。
一条信能、葉室光親、源有雅、葉室宗行、高倉範茂らの公卿は、北条朝時(北条義時の次男)によって鎌倉に送られる途上で処刑されたのと同様に、藤原範茂も、足柄峠を越えて、関本までやってきたところで、清川(現在の貝沢川?)の底に沈められました。
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この処刑は、五体不具(首などを斬られる)では、死後の往生に障りがあると、藤原範茂が入水を希望したとされています。
着物のふところなどに、重い石を入れて、川をせき止めて深くしたところに、入水して最後をとげたと伝わります。
その後、高台に葬られた場所が、南足柄市の藤原範茂の墓がある場所でして、宝篋(ほうきょう)印塔は、その後、室町時代前期に設けられたと推定されています。
他にも、同じ怒田の朝日観音堂のそばに、南北朝時代から室町時代前期と推定される宝篋印塔があるようですが、そちらは藤原範茂の従者の墓との伝承があるようです。
なお、子の藤原範継(ふじわら-の-のりつぐ)は、執権・北条泰時に許されて助命となり、順徳天皇・仲恭天皇・後堀河天皇・四条天皇の侍従や舞人を務めています。
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その藤原範茂の墓と伝わる怒田宝篋印塔があるのが、範茂史跡公園でして、交通アクセス・行き方は下記の通りです。
伊豆箱根鉄道・大雄山線の終点「大雄山駅」から、箱根登山バス「新松田」行きに乗車し、「足柄高校前」バス停下車の、坂道を登る事、徒歩約10分となります。
範茂史跡公園には、20台ほどの無料駐車場もありますので、クルマで行くのが便利です。
大きくない公園ですので、見学所要時間は、駐車場からの往復で5分ほどになります。
当方のオリジナル関東地図にて、駐車場の入口をポイントしておきます。
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