石見銀山の歴史【世界遺産】

石見銀山の歴史

石見銀山 (いわみ-ぎんざん) は、島根県大田市大森町にある鉱山で、戦国時代には日本で最大の銀山でした。
国指定史跡だけでなく、「石見銀山遺跡とその文化的景観」として、世界遺産にもなっています。
大森にあることから、昔は、大森銀山(おおもり-ぎんざん)と呼ぶのが一般的でした。



石見銀山旧記によると、鎌倉時代末期の1309年(延慶2年)に、周防守護の大内弘幸が石見に来た際に、北斗妙見大菩薩(北極星)のお告げを受けて「銀」を発見したと伝わります。
南北朝時代に入ると、足利直冬が露頭銀を採ったとありますので、地表に露出していた自然銀を採掘していた可能性があります。
足利直冬(あしかが-ただふゆ)は、室町幕府を開いた足利尊氏の庶子ですが、父とは対立しており、最後は石見で亡くなったとされる武将です。
また、石見銀山の付近では、主に、鉄鉱石も産出していた模様で、仙ノ山(せんのやま)低位に位置する永久(えいきゅう)鉱床が該当します。
仙ノ山の山頂部の福石(ふくいし)鉱床は、主に銀が産出されました。

石見銀山

時は流れて、戦国時代に入ると、博多の豪商・神屋寿禎(かみやじゅてい)が、1527年に石見銀山を発見しました。
神屋寿禎は、中国・朝鮮への主要な輸出品である「銅」を買い付けるために、石見の日本海沿岸を航行していたところ、南の山に霊光を発見し、銀山の存在を知ったとされています。
そして、石見の実力者である大内義興と、出雲・田儀村の銅山主・三島清右衛門の協力を得て、堀師の吉田与三右衛門、吉田藤左衛門、於紅孫右衛門らと石見銀山を発見し、本格的な採掘が始まりました。
最初の頃は、鞆ケ浦(ともがうら)から日本海の海運で博多へ銀を輸送しています。

鞆ケ浦(ともがうら)

1528年、月山富田城尼子経久が大森銀山(石見銀山)を奪取すると、1530年(享禄3年)に、温湯城の小笠原長隆が石見銀山を占領していますが、3年後に再び大内氏が奪回し、石見・山吹城を造営し、防備を固めています。
1533年には、石見銀山で灰吹法(はいふきほう)と言う銀精錬が、採用されました。
灰吹法(はいふきほう)とは、金や銀を鉱石などから、いったん鉛に溶け込ませ、さらにそこから金や銀を抽出する方法で、捨てる無駄が少なく(効率よく)銀を抽出することができました。
石見銀山で初めて始まりると、大内氏への献上銀が年16kgから、年80kgへと急増し、その後、灰吹法は、生野銀山など、各地の銀山に広まりました。
しかし、健康被害は深刻だったようで、作業員は鉛中毒や水銀中毒を発症し、石見銀山では30歳まで生きられた鉱夫は、尾頭付きの鯛と赤飯で「長寿」の祝いをしたと言います。
※現在、灰吹法は使われていません。

灰吹法

1537年(天文6年)、月山富田城の尼子経久が石見に侵攻すると、再び大森銀山を奪っています。
その後、大内氏、尼子氏、石見・小笠原氏と、争奪戦が続きました。
大内義隆が死去して、毛利元就が台頭すると、毛利家と尼子晴久との間での争奪戦となっています。

しかし、1561年(永禄4年)、尼子晴久が急死すると、後継の尼子義久は家中の動揺を抑えられず、1562年、毛利家と「石見不干渉」を約束した雲芸和議を結び、石見・山吹城の本城常光を降伏させました。
この結果、毛利元就が石見銀山を手中に収め、には吉川元春の家臣である森脇市郎左衛門を、山吹城に配置されています。
また、温泉津(ゆのつ)、沖泊(おきどまり)などを、銀の搬出港とし、石見銀山の支配を強化しています。



1584年(天正12年)、毛利輝元豊臣秀吉に従属すると、石見銀山には、豊臣家から近実若狭守が派遣され、毛利家の代官・三井善兵衛と共に管理され、豊臣氏も銀を手に入れています。

1591年(天正19年)、豊臣秀吉の命にて、毛利家の家臣である林就長と柳沢元政が、大森奉行となっておりますが、少しずつ、豊臣家の取り分が増えて行ったようです。
1600年には、銀の配分が毛利家と豊臣家で半分ずつとなりました。

関ヶ原の戦いにて、徳川家康が勝利すると、毛利家は減封となり、石見の支配を失います。
佐渡金山や石見銀山などは、すべて徳川幕府の直轄領となり、大久保長安が石見・山吹城に入りました。
やがて、大久保長安は、大森代官所を拠点としたため、山吹城は廃城になっています。
安原伝兵衛が釜屋間歩を発見するなどして、1602年には、年産4千貫(40万石)=15トンの銀を産出し、最盛期を迎えましたが、以後は、徐々に産出が減ってきました。

石見銀山の鉱石

幕末期には、地下へと深く掘らないと銀を産出できなくなり、地下水に悩まされ、産出量は減っていました。
明治に入り、機械化が進むと、地下水をポンプでくみ上げできるようになり、少し戻しましたが、1917年(大正6年)、第1次世界大戦に伴う軍費として増産した時には、年間で銀4.2t、銅477tと、既に、銅の産出がメインとなっていました。
その銅も国際価格が下落し、1943年(昭和18年)、石見銀山は水害を受けて、坑道が水没したため、完全閉山となっています。
現在「間歩」(まぶ)と呼ばれる坑道などは約700ほど確認されています。



そのうち、龍源寺間歩は、年間通じて、一般公開されており、内部を見学できます。
大久保間歩、金生坑(きんせいこう)などは、期間限定の予約制・ツアー式などでの公開です。

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