徳丹城跡・国指定史跡

徳丹城跡・国指定史跡

徳丹城について

所在地: 〒028-3603 岩手県紫波郡矢巾町西徳田第6地割
徳丹城は、平安時代初期の弘仁3年(812年)頃に、
時の征夷将軍 文室綿麻呂によって造られた
律令制最後の 城柵で、昭和44年に国指定史跡に指定されています。

現在、地上には当時を知るものは何一つ残されていませんが、
発掘調査の成果により、史跡は一辺の長さが約350m の方形
で、北辺を中心とする高台の個所は築地土塀となっていますが、
低湿な個所は丸太材列で巡らされ、各辺の中央には門が 造られ、
70m程の間隔で櫓が設置されています。
外郭線に囲まれた中央には約80m四方の政庁があり、
その周辺に 実務官衙が配置されていたことも分かってきています。

近年の発掘調査では、
徳丹城造営のための区画施設や
警備のために任命された「別将」が使ったとされる墨書土器 の発見など、
新たな事実が次々に解明されています。
徳丹城跡の西隣にある矢巾町歴史民俗資料館には、
徳丹城から出土した土器や木製品などの展示を行っており、
徳丹城を分かり易く説明しています。

また、春には「徳丹城まつり」としてお祭りが開催されます。
桜が咲く時期に合わせて開催され、
2019年は4月28日とのことです。
毎年4月下旬です。
徳丹城には国道4号線が走っていて、
アクセスには便利です。

<交通アクセス>
矢幅駅から車で5分
盛岡南 ICから車で20分

徳丹城の発掘調査及び概要について

2006年7月31日に徳丹城跡内の井戸跡で、
国内初となる木製の兜が発見されていたことが
9月13日に矢巾町教育委員会から報道機関に公表されました。
過去の文献には木製兜の存在が記されており、
その数も非常に多いと推定されていたものの、
木材は腐食しやすく出土した例がありませんでした。

「徳丹城」は、もともとあった志波城(盛岡市)を、水
害を理由に弘仁2年(811年)、文室綿麻呂の建議により、
翌年の3月頃南10キロメートルに移転・造営したものです。

沖積平野の微高地(低台地)に立地し、
約350メートル四方の規模です。
材木列で周囲を囲み、70メートル – 80メートルの間隔で櫓を建てていました。
内部には官衙建物群があり、志波城の政治機能を引き継いだものと考えられています。

けれども志波城と比べて城郭の規模は縮小されており、築地も北側にしかありません。
さらに弘仁6年(815年)には配置されていた鎮兵500人が廃止され、
正規軍が配置されなくなります。
けれども徳丹城自体は9世紀半ばまで使用されていた形跡があり、
律令国家に協力的な俘囚の軍が配置されていたと考えられています。
志波城の移転・徳丹城の造営・徳丹城の廃止の一連の流れは、
この時期の律令国家の強硬政策の転換と考察されています。

名称などの説明

1971年頃に徳田小学校旧校舎を取り壊した際、
建築廃材(コンクリート片)がそのまま徳丹城跡に埋められ、
史跡が385平方メートル(2007年7月26日現在判明分)
に渡って損傷していたことも明らかになりました。

【名称】
城名は、元来「トクタン」ではなく「トコタン」と呼ばれていましたが、
後に「徳丹」の漢字が当てられることによって
「トクタン」として定着したといわれています。
史跡の所在地である「徳田」も、この「徳丹」と同義である可能性が高いそうです。
「トコタン」の語はアイヌ語に由来すると言う説があり、
アイヌ語では「元の村」、「滅んだ村」の意味になるそうです。

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