人首城跡(人首要害)
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人首城跡(人首要害)

〒023-1551 岩手県奥州市江刺区米里所在の人首城跡を紹介します。
人首の漢字ですが読み方は「ひとかべ」と読み、漢字は当て字の可能性が高いです。
この名称は地名や公立学校の名前にもなっており、
ある人物名がその由来となっております。
その人物は、延暦20年(801)に坂上田村麻呂に征伐された
阿弖流為の弟である大武丸の子供である人首丸(ひとかべまる)です。
この地に逃げ込み、立てこもり約4年にわたって抵抗するも
兵糧攻めにあい、ついに、大同元年(806)に討たれました。
その時人首丸は若干15~6歳であったと伝わっているそうです。
遺体は大森山中に埋められ、
その死を悼み懇ろに葬られ、現在でも
人首丸の墓碑があるそうです。
また墓碑から西に百メートル位の場所には
案内板として説明看板があります。
この地は朝廷と蝦夷軍との最後の攻防地であったと伝わり、
少年であった人首丸の反骨精神は、
この地に住む人々の心に長きにわたり受け継がれてきたそうです。

時は流れ、戦国時代に入ると、
葛西氏の重臣である江刺三河守重胤の次男である人首如清が城主でした。
葛西氏とは、鎌倉時代に武蔵国・下総国の御家人・豊島氏の一族で、
その後、陸奥国に所領を得て土着した一族です。
その葛西氏が奥州仕置で所領を失い、城主の人首氏も運命を共にしました。
その後、葛西・大崎一揆がおこり、所領が伊達政宗のものとなると、
正宗の重臣である沼辺氏が城に入り、10代続いて明治維新を迎えました。

訪れた時は、あいにく道路工事中で通行止めとなっており、
泣く泣く遠くからの撮影となりました。
城に続く道は狭く、小型車で行かれるといいかも思います。

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投稿者

神奈川県




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