水戸黄門(徳川光圀)

水戸黄門(徳川光圀)

徳川光圀(とくがわ みつくに)は、水戸黄門(みとこうもん)としても知れられる水戸藩の2代当主です。
徳川家康の孫になる徳川頼房の3男として、江戸時代初期の1628年に水戸城下の家臣・三木之次の屋敷にて生まれました。
母は側室になる谷重則の長女・高瀬局(久昌院)です。

下記写真は水戸駅からも近い、水戸黄門(徳川光圀)の誕生地にある水戸黄門神社(義公祠堂)になります。

水戸黄門(徳川光圀)誕生地

1661年、父・徳川頼房が水戸城で亡くなり、水戸藩28万石の家督を継ぎます。

江戸初期には、藩主が死去すると、家臣には殉死する者が多かったのですが、水戸光圀は、風習になっていた家臣の殉死を禁じました。
自ら殉死すると噂された家臣の屋敷を周って説得したと伝わります。
この2年後、江戸幕府は殉死禁止令を出しています。

水戸では新鮮な水が飲めるよう水道工事、多すぎる寺を減らした寺社改革など藩内の改革でも手腕を発揮しました。

水戸光圀の銅像

テレビドラマ「水戸黄門」では、徳川光圀が助さん・角さんを連れて、諸国漫遊しますが、実際の徳川光圀は、そうでは無かったようです。
通常は、天下の副将軍として、常に江戸の藩邸にいて、将軍に助言などする役割があり、本拠地の水戸城から他の大名のように参勤交代することもありませんでした。
たまに水戸城に行く際にも、許しを得て帰ると言う感じですので、筑波山に登ったりはしましたが、自由に遠方には行けなかったようです。
ただし、どこにも出かけていない訳ではなく、日光、鎌倉、金沢八景、房総など関東の一部には訪問したと言う旅の記録が残っています。
また、水戸に入ったときには、領内を視察すると、村の孝行者などを表彰したりして、領民にやさしく接したと伝わります。

なお、江戸の藩邸に彰考館を建てて、大日本史と言う日本の歴史書の編纂事業を始めました。

大日本史

この編纂では、日本各地に藩士を派遣して、現地での聞き取り調査も行ったため、そのような意味では、水戸藩士を日本全国に派遣していますので、各地の様子・情報は手に入っていたようです。
大型船を建造しては、蝦夷地探検を3回行わせることもありました。

徳川光圀は、レシピを見て、自らラーメンを作ったと言われており、日本で初めてラーメンを食べた日本人ともされます。

西山荘「水戸黄門が隠居生活した小さな西山御殿」

常陸・太田城跡近くの西山荘に隠居したあとも、5代将軍・徳川綱吉の命により江戸にも登りましたが、柳沢吉保ら改革派からはよく思われていなかったようです。

1700年、食道がんのため西山荘の寝室にて死去。享年73。

西山荘

トップにある写真は、水戸駅前のデッキにある水戸黄門の銅像になります。

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