伊奈忠次

伊奈忠次

伊奈忠次

伊奈忠次(いな-ただつぐ)は、三河・小島城主である伊奈忠家の嫡男として1550年に生まれました。
なお、伊奈忠家の父・伊奈忠基の末子とする説もあります。
1563年、父・伊奈忠家は、三河一向一揆の際に、兄・伊奈貞吉と共に徳川家から出奔して一揆衆に加わりました。
その後、1575年、武田勝頼との長篠の戦いにて陣借りをすると戦功をあげて、徳川家の家臣に復帰を果たしています。
父・伊奈忠家は、徳川家康の嫡男・松平信康の家来となりましたが、この時、伊奈忠次も父と共に従ったようです。
しかし、織田信長の命によって松平信康が自刃させられると再び徳川家から出奔して和泉国の堺にて浪人しました。
堺には、父の兄・伊奈貞吉が住んでおり頼った模様です。

その堺に居たのが幸いし、1582年、明智光秀による本能寺の変になると、たまたま堺に滞在していた徳川家康のピンチを救います。
神君伊賀越えの際に小栗吉忠らと協力した功績にて、再び帰参が許されて父・伊奈忠家と伊奈忠次は旧領・小島城に復帰しました。

父は1584年、小牧・長久手の戦いにて井伊直政に与力して武功を上げ、その後はまた徳川家を離れて織田信雄に仕えました。
ただし、伊奈忠次は三遠奉行のひとりである小栗吉忠の同心になっており、検地や寺社領支配、街道整備などに携わりました。
その後、1590年、小田原攻めの際にも荷駄隊の指揮などを執りましたが、小栗吉忠が死去すると伊奈忠次が代官衆の筆頭となりました。
父も織田信雄が改易(所領没収)となると、伊奈忠次を頼ったようですが、活躍は見られず隠居した可能性もあります。

伊奈忠次は引き続き小荷駄による兵糧輸送を朝鮮攻めの際にも見事に担い、引き続き街路整備、宿駅の伝馬制などの交通政策などを徳川家の代官として担当しました。
また、江戸城の大改修の際には、江戸の城下町が洪水に合わないよう、江戸に流れていた利根川を銚子へと向ける工事を開始するよう命を受けています。
徳川家康が江戸に転封となった際には、埼玉県北足立郡伊奈町小室にある伊奈城(伊奈氏屋敷)にて1000石でしたが、1万3000石の大名へと出世し武蔵・小室藩(こむろはん)の初代藩主になっています。

1600年、関ヶ原の戦いでは、武蔵国の市川・松戸・房川などの関所を警備し、江戸時代に入ると関東代官頭として大久保長安、彦坂元正、長谷川長綱らと共に徳川家の関東統治に大きく貢献しました。
特に農民に対して農業技術も伝えており、農政全般にわたっても江戸幕府の基礎を固めました。

慶長15年(1610年)、伊奈忠次は61歳で死去。
墓所は、埼玉県鴻巣市の勝願寺になります。
家督は嫡男・伊奈忠政が継いでいます。

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