蠣崎季広の解説

蠣崎季広

蠣崎季広(かきざき-すえひろ)は、蠣崎義広の子として1507年に生まれました。
元服すると、父と共にアイヌとの戦いにも参陣したいたものと推測しますが、父が1545年に亡くなる家督を継いで、蠣崎氏5代当主になりました。

この時、蠣崎季広の従兄弟・蠣崎基広(蠣崎高広の子)が、家督相続に不満を持って謀反を起こしますが、蠣崎季広は家臣・長門広益に命じて鎮圧しています。
蠣崎季広の首は、武勇名高い、この長門広益(ながと-ひろます)が持ちかえったと言う事です。


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なお、蠣崎季広は1549年(1551年とも)に、アイヌの首長である東地のチコモタインと、西地のハシタインと和睦して「夷狄商船往還法度」を作りアイヌとの交易を独占。
また、家臣団を再編成するなど整備を進めました。

正室:河野季通の娘(伝妙院)と側室などの間に、13人の男子と13人の娘がいたと言い、主君の安東家だけでなく、奥州の諸大名とも姻戚関係を結んでいます。

ただし、将来を嘱望されていた嫡男・蠣崎舜広(かきざき-としひろ)は、1561年に、南条広継の正室となっていた長姉に毒殺されています。
更に1562年には、次兄・明石元広と相次いで毒殺されました。

1583年に蠣崎季広が隠居した際には、家督は3男・松前慶広(36歳)に譲りました。(1582年とも)
この隠居は松前慶広を育てるという意味もあったようです。


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その後は、当主の松前慶広は豊臣秀吉に臣従しました。
隠居していた蠣崎季広は1595年に死去。享年89。

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