明智藪 明智光秀「絶命の地」はこんなところ 本経寺 小栗栖城 訪問方法など詳しく

明智藪

明智藪とは

明智藪(あけちやぶ)は、京都府京都市伏見区小栗栖にある明智光秀が絶命したとされる場所の名称です。
1582年6月2日、明智光秀本能寺の変にて、織田信長織田信忠の親子を討ちました。
しかし、中国大返しで戻って来た羽柴秀吉との山崎の戦い(天王山の戦い)に敗れてしまいます。
そのとき、撤退した勝竜寺城から夜陰に紛れて落ち延び、明智光秀の主従らは本拠地の近江・坂本城に急ぎました。


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明智光秀「絶命の地」

しかし、その途中、竹やぶを通りかがった際に、落武者狩りの農民から襲撃されて、落命したとする説が一般的になっています。
致命傷を負った明智光秀は落馬し、家臣・溝尾茂朝(溝尾庄兵衛、溝尾勝兵衛)の介錯を受けて自刃したといわれます。
その明智光秀が絶命したとされる場所が、伏見城からもほど近い「小栗栖」であるとされます。
竹中半兵衛の嫡男・竹中重門の記録には下記のようにあります。

里の中道の細きを出て行くに、垣ごしにつきつける槍、明智光秀の脇にあたりぬ
されど、さらぬ体にてかけ通りて、三町(300m程度)ばかり行き、里のはずれにて、馬よりころび落ちけり

現在の明智藪は、竹藪を所有している本経寺によって、1994年に土砂崩れ防止の工事が行われ、片方だけに竹藪が見受けられる感じになっています。

明智藪

諸説ありますが、討ち取られたのは荒木氏綱(荒木山城守)という家臣で、明智光秀は自分の身代わりとして、そのまま落ち延びたという話もあります。

伏見から大津城方面に向かう街道沿いに小栗栖(おぐるす)があります。
明智光秀が本当に、ここ小栗栖で命を落としたのかは別として、その小栗栖の明智藪に関して詳しく解説したいと存じます。

明智藪

6月14日の丑の刻(午前2時)頃、明智光秀が襲撃された場所は、地元では「明智藪」として伝わっています。
小高い山の斜面にあり、今では畑に行くための小道のようで、車が入ることはできません。

明智藪

場所は現在ある本経寺の東側の崖下と言う事になります。

この付近、戦国時代に領していたのは、小栗栖城の土豪・飯田氏です。
この飯田氏は、平安時代末期に源頼朝に従った、相模国飯田郷の飯田家義の子孫とされます。
吾妻鏡にも出てくる飯田家義(いいだ-いえよし)は、渋谷重国の子で、富士塚城(神奈川県横浜市泉区下飯田町)が飯田郷(飯田家義館)と言う事になります。
鎌倉時代末期の1333年に飯田家秀(飯田源五郎家秀)が足利尊氏に従って上洛し、小栗栖に砦を築きました。
飯田氏の宗家は、足利義詮に従って鎌倉に戻ったようですが、飯田家秀の子である飯田俊永の2男・飯田永盛(飯田越中守永盛)が小栗栖に土着しました。

小栗栖城

そして、明智光秀は近江・坂本に向かう途中、ここ小栗栖で落ち武者狩りにあい討死しました。
討ち取ったのは、小栗栖の作右衛門とも、小栗栖の長兵衛とも言う農民であったとする話もあります。
ただし、そのときに、明智勢を襲撃したのは、小栗栖城の飯田氏であったと地元や飯田家では伝承が残っています。
なんでも、飯田左吉兵衛が織田信長に仕えていたようで、本能寺で命を落としたとあります。
その恨みで、飯田一族が近辺の民衆を連れて、明智光秀を襲ったとされています。
小栗栖城跡は、現在の小栗栖八幡宮と言う事になりますので、その大きさからも小さな一党であったと推測できます。


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実際問題、農民に襲撃されたと言う事であれば、鎧の上から竹槍で突かれたと言う話は、多少無理があるように感じます。
また、少数で疲労があると言っても、織田家の家臣らが、農民にそうそう、やられることはないとも感じます。
仮に農民だとしても、わざわざ、落ち武者を襲うと言う事は、リスクもあります。
すなわち、小生は、ある程度、プロによる仕業だと考えるに至りました。
と言う事で、小栗栖城の飯田氏に関連する手勢が、明智勢をここで襲ったと思うのですが、小栗栖城の飯田氏が恩賞をもらったと言う記録も無いようです。
恐らく、飯田一党は、明智勢の誰か?と言う事を認識して襲撃したと思うのですが、誰も明智光秀の顔なんて知りませんから、明智光秀を討ち取ったと言う認識がなかったと推測しています。
介錯した溝尾茂朝(溝尾庄兵衛、溝尾勝兵衛)は、明智光秀の首を鞍覆いに包んで藪の中の溝に隠したとも、埋めて自分も自刃したとも、首を持って京の妙心寺に向かったとも、坂本城に行ったとも、色々な説があります。
いずれにせよ、それらの行動も監視していた土民らは、首を集めて、明智光秀とは知らず豊臣勢に届けたのでは存じます。
実際に、織田信長が横死した本能寺の焼け跡に、3000の明智勢の首が晒されたともあります。
受け取った豊臣勢で、明智光秀の顔を知る武将が、その後、明智光秀だと確認できたとも言えるかと存じます。


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吉田兼見の日記「兼見卿記」には「向州、醍醐の辺に於て一揆に討取らる」とあり、その首は村井清三や「三七郎殿」(織田信孝)のもとへ届けられたとあります。
山科言経(やましな-ときつね)の日記「言経卿記」にも「惟任日向守、醍醐辺に牢籠す、則ち郷人、一揆としてこれを打つ」とあり、首は本能寺の焼け跡に届けられたとあります。
もちろん、この醍醐寺の近くと言う場所が、ここの明智藪であると言う確証もハッキリとは無いのですが、もしかして飯田氏が帰農でもしていたと考えると、土民と呼ばれても、おかしくないような気が致します。

下記の明智藪にある本経寺です。

本経寺

本経寺には、新しい石碑ですが、明智光秀供養碑が本堂の左わきにあります。

明智光秀供養碑

明智光秀之塚と言う明智光秀の胴塚とされる石碑が、新小栗栖街道の精米所脇にあります。

明智光秀之塚

行き方・アクセス

明智藪・小栗栖城・本経寺・明智光秀之塚(明智光秀の胴塚)がある場所は、当方のオリジナル地図にてポイントしてあります。
歩きでも、自動車でもスマホでカーナビ代わりにお使い頂ける地図です。

明智藪に行く場合、住宅街で駐車場がありませんので、本経寺の参拝者用駐車場を拝借となりますが、もちろん地元の方優先で迷惑をお掛けしないよう、お願いしたいと存じます。

本経寺の参拝者用駐車場

その本経寺へクルマで向かう場合、本経寺の南側の細い道路は狭すぎて軽自動車以外は厳しいです。
普通車は北側にグルッと回り込んで向かってください。


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小栗栖城跡も駐車場がありませんが、本経寺から徒歩圏内ではあります。
明智光秀之塚(明智光秀の胴塚)は少し離れたところですが、コイン精米所の駐車場が利用可能です。

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