平沢官衙遺跡とは 奈良時代の地方中心地の例

平沢官衙遺跡

平沢官衙遺跡とは

平沢官衙遺跡(ひらさわかんがいせき)は、茨城県つくば市平沢にある奈良時代平安時代の常陸国筑波郡郡衙跡で、国の史跡に指定されています。
郡衙(ぐんが)と言うのは下記のとおりになります。
日本の場合、645年に大化の改新(たいかのかいしん)で、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と、中臣鎌足(なかとみのかまたり)が中心になって、蘇我氏を打倒します。
そして、唐の律令制を手本にして、公地公民制による中央集権国家建設を進めます。
更に、660年、白村江の戦いで、日本・百済遺民の連合軍が、唐・新羅の連合軍に大敗します。
そのため、唐・新羅による日本侵攻が予想される事態になり、大宰府など防衛体制を整えました。


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そのような危機的な状況の中、国制改革が進み、地方の統治も強化して行きます。
そして、701年、日本で最初の本格的な律令法典である「大宝律令」(たいほうりつりょう)が制定され、国の名前も倭国から日本へと変更し、平城京も作られました。

これら古代の律令制(りつりょうせい)のなかで、地方の統制を図り、税を確実に徴収する行政機関となったのが、各地に設置されたのが郡衙です。・
その郡衙、国府、駅など、地方における施設を「官衙施設」と呼びます。

地方には行政官として中央から郡司が派遣され、政務にあたったのが正殿・脇殿などの郡衙政庁となります。
そして、田租・正税出挙稲を保管するのが高床式倉庫の正倉(しょうそう)で、宿泊や饗応用の建物が館、食事など調理場・食堂となったのが厨(くりや)と言う事です。


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宿泊施設が必要と言うのは、役場にはみんな遠くから訪れる訳ですので、寝泊まりする施設も必要だったと言う事になります。

筑波の平沢官衙遺跡からは、昭和50年(1975年)の発掘調査で、掘立柱建物跡55棟分も確認されました。
規模からも一般集落とは考えにくく、大溝に囲まれて総柱式建物跡(高床式倉庫)が規則正しく並んでいることや、周辺の遺跡分布から、奈良時代・平安時代の郡衙である可能性が高いことから、古代律令制下の筑波郡役所(郡衙)跡の一部であると評価され、国史跡の指定を受けることになりました。

もともと、県営住宅団地の造成を行う予定でしたが、歴史公園として整備し、校倉・土倉・板倉の3棟を実物大にて復元すると、2003年(平成15年)から一般公開されています。
入園は無料です。

平沢官衙遺跡

このように、平沢官衙遺跡を現代で例えるのであれば、市役所以上、県庁以下と申しましょうか?
郡役所と言うのは今は無いので、現代風に言えば、市役所の周りに、市の倉庫・税務署・市長公邸などが集まっている市の中心地と言えます。


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交通アクセス

平沢官衙遺跡への交通アクセス・行き方ですが、電車の場合、つくばエクスプレス(TX)の終点・つくば駅から、つくバス小田シャトルで所要約45分、「大池・平沢官衙入口」バス停下車して徒歩約5分となります。
クルマの場合、無料駐車場がいくつか用意されています。
当方のオリジナル地図でも駐車場をポイントしてあります。
芝生エリアも広いので、ピクニックとして利用するのも良いです。

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