源頼朝の気になる「妻」「妾」一覧リスト【源頼朝の落胤伝説】解説

源頼朝の妻・妾

鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝には、何人か、妻や妾(めかけ)がいたとされます。
その源頼朝に関連した妻の全員を一挙、どんな女性だったのか?、生い立ちなども踏まえて、ご紹介してみたいと存じます。



例えばですが、平安時代の末期、武将と一晩を過ごした「遊女」と記載される女性と言えども、その辺の貧しい村の娘と言う事ではありません。
すべてがそうだとは申しませんが、遊女と記載されていても、それなりに、出自がしっかりしている、武将や神官などの娘であることが多いです。
例えば、旅の移動途中、宿泊した屋敷などで、遊女と過ごしたと言う事があります。
しかし、その屋敷じたい、在地武将の家や、寺などであったりすることが、ほとんどのため、ある程度、高貴な者の前に出れるのは、素性もしっかりした女性と言う事になるのです。
お寺の住職と言えども、武将や公家の出で、家督を継げなかった弟など、身分が確かな者であることが、多いですのでね。

遊女ではなく、普段の暮らしにおいては、基本的に、男性の方から、妻や妾の住まいに「通う」のが通例となります。
また、正室と言う定義も、あやふやなのが、鎌倉時代ですので、妻が何人いてもおかしくありません。
そして、だれが正妻(正室)なのか?は、誰かが決めると言うよりは、家中の侍女や側室・妾の取り扱いなどの人事権、奥向きの取締を、行う事が出来た妻・・。
すなわち、複数いる、妻の中で、1番権力ある女性、周囲が1番だと認めた妻が、正妻であると言えます。
それが、妻の出自(身分の高さ)であったり、後継ぎを産んだり、妻としての活躍度などで、認められたか?と言う事ですね。



平安時代や鎌倉時代は、妾と言う女性と言えども、それなりの身分の女性がほとんどですので、妾と言う言葉も適切とは言えず「妻」と表現するのが、正しいところです。
ただし、源頼朝に限らず、普段、身の回りの世話をしてくれる女性に、手を付けたと言う事例は、のちの世より、鎌倉時代のころは、多いように感じます。

利根局

源頼朝との関係が、一番古そうなのは、利根局になります。
利根局は、波多野経家の3娘(大友経家の娘)とされ、源頼朝が伊豆に流罪となっているとき、侍女として仕えていたようです。
そして、御落胤伝説として、1172年に、利根局が産んだのが、大友氏の祖・大友能直とされます。
ただし、利根局は、波多野経家(大友経家)がかつて養育していた、中原親能の妻になっています。
そのため、生まれた大友能直の父は、中親能原とされるのが一般的です。
成人した中原親能は、京にて源雅頼の家人を務め、斎院次官(さいいんすけ)でしたが、1180年、源頼朝が挙兵すると、鎌倉に移住したようです。
そして、源頼朝の側近となり、のち、十三人の合議制のひとりにも選出されています。



ちなみに、1172年生まれの大友能直の出自に関しては、諸説ありますが、相模国愛甲郡古庄郷司であった近藤能成(古庄能成)の子ともされます。
その場合、母が波多野経家の娘であり、中親能原の妻になった波多野経家の娘・利根局とは姉妹と言う事になります。
父・近藤能成(古庄能成)が早世したなどの理由があり、中原親能の猶子になったとも考えられます。

利根局の解説~源頼朝の妾だったのか?大友氏の租・大友能直の母

八重姫

源頼朝の最初の妻として知られるのが八重姫です。
伊東祐親の3娘が、八重姫と言う事になります。
この伝承が本当だとすると、1160年から伊豆に流された源頼朝は、最初、伊豆の伊東荘にて暮していたと推測できます。
そのため、八重姫と源頼朝は、お互いを知る事にもなったのでしょう。



なお、流刑と言っても、犯罪を起こす可能性も低い場合、当時は、牢獄に入れられた訳ではありません。
屋敷を与えられて、手紙や面会だけでなく、馬での遠出も許されており、ある程度自由だったのが、平安時代末期の流罪です。
ただし、監視役として、平家に従う武将として、伊東祐親と北条時政が、当てられていました。
もちろん、食事を作ったり、源頼朝の身の回りを世話する若武者や侍女なども、付けられていたと言う事になりますので、少なくとも10名以上で生活していたものと考えられます。

伊東祐親が、大番役(警護役)で、京に上洛している間、八重姫と源頼朝は密会していたと言います。
源頼朝は、伊東の日暮神社付近で、夜になるのを待ち、音無神社付近にて八重姫とあっていたとされます。

音無神社

そして、男児・千鶴丸(千鶴御前)を授かりました。
生年は不詳ですが、1172年頃に生まれたと推測できます。
しかし、1175年9月頃、3年程留守にして京から戻った伊東祐親は、その子を見て激怒します。
千鶴丸は稚児ヶ淵に沈められて殺害され、八重姫は江間小四郎なる武将に嫁がされました。
更には、源頼朝を殺害しようともしたので、八重姫の兄・伊東祐清が、源頼朝に危険を知らせたと言います。
<注釈> 源頼朝の乳母である比企尼の3娘が、伊東祐清の妻であった。



源頼朝は、小舟に乗るると、網代の赤根崎にて上陸し、多賀から熱海への山越えを行いました。
峠越え山道の途中には、頼朝の一杯水と呼ばれる湧水もあります。
そして、走湯権現(伊豆山神社)へ逃れました。
その後、北条荘の北条時政のところに移り、蛭ヶ小島(ひるがこじま)にて、引き続き謹慎を続けたようです。

八重姫のその後に関しても、源頼朝を訪ねたら、北条政子と結婚していたのを知り、川に身を投げたとも、色々な話があります。(詳細はこちら)
話の内容が、よくできすぎているため、八重姫に関しては、実在しなかった創作の可能性もあります。

更に詳しい内容など、ご興味がある方は、下記の八重姫をご確認頂けますと幸いです。

八重姫(伊東祐親の3女)の解説~源頼朝の子をなすも悲運の女性「わかりやすく説明」

北条政子

源頼朝の妻として、一番、よく知られるのは北条政子です。
よく、北条政子のことを正室と表現されることがありますが、北条氏では、出自の家柄が、各段良いと言う事でもありません。
よって、源頼朝が、最初から正妻にしたと言う事ではなく、次期将軍となる男子を産んで、妻の中で1番権力を持ったので、正室と呼ばれる存在になったと、いったところです。
もし、北条政子が、男子を産んでいなければ、御台所・尼将軍にもなれなかった可能性が高く、単なる北条時政の娘と言う事で、歴史に名を残していたことでしょう。



八重姫と言う女性が実在したのであれば、そのあと、結婚したのが北条時政の娘・北条政子となります。
長女・大姫の誕生が1178年ですので、源頼朝と北条政子が結婚したのは1177年頃と考えられています。
下記は、伊豆・蛭ヶ小島(ひるがこじま)にある、源頼朝と北条政子の銅像です。

源頼朝と北条政子

そして、1182年、長男・源頼家が誕生。
跡取りを産んだことで、北条政子は御台所として、妻の中で一番の女性となりました。
ただし、北条政子の妊娠中に、源頼朝は亀の前のもとに通っており、牧の方から知らされた北条政子は、亀の前が住んでいた伏見広綱の屋敷を破壊させました。
1186年、次女・三幡(乙姫)が誕生していますが、この妊娠中に、源頼朝は大進局という妾のもとへ通い、大進局は、貞暁を産んでいます。
1192年、次男・源実朝が誕生しています。
これにより、大進局が産んでいた男子・貞暁(7歳)は、京の仁和寺へ送られて出家しました。

北条政子は、悪女だったり、鬼嫁と言うイメージが先行していますが、一方で静御前の命を救うなど、優しい一面もあり、北条政子を知れば知るほど、リーダーシップを発揮した女性だったことがわかります。
愚管抄でも、北条政子のことを「日本の政治は政子のような女性により完成するのだ」と評価しています。

ちなみに、本人が「北条政子」と名乗ったり、手紙に名前として記載したことは、確認できていません。
そのため、北条政子の本当の呼び名は不明といったところでして、政子と言うのは、朝廷から従三位に叙された際に、手続きの必要上から、父・北条時政の名から一字とり、政子と明記したことによるものです。(女性において珍しい事なので、かなり地位が高いと言える)
その後、従二位になったことから、吾妻鏡でも、多くは「二品禅尼」という敬称で記載されています。
政子以外に、伝わっていないため、後世では、一般的に北条政子と言う事になっているに過ぎません。
戒名は、安養院殿如実妙観大禅定尼ですので、その中に、本当の名前の1字が含まれている可能性もあります。
個人的には「安」(やす)と言う名前だったのかな?と、感じております。

北条政子の解説【尼将軍と呼ばれた御台所】鎌倉殿の13人

祥寿姫

祥寿姫(しょうじゅひめ) は、平安時代末期の女性で、新田氏の一族が出自とされますが、名前や生没年は不明です。
一説によると、新田義重の娘(源義重の娘)とされます。
源頼朝の異母兄・源義平の妻が祥寿姫でしたが、1159年、平治の乱にて敗れた源義平は、のち捕まって斬首となりました。
源義平の享年20ですので、祥寿姫はまだ若くして未亡人になった可能性があります。



源頼朝は、鎌倉に入ったあと、1182年7月頃、伏見広綱(伏見冠者廣綱)に命じて、祥寿姫に恋文を送っています。
しかし、何度送っても、返事がなかったと言います。
そのため、父とされる新田義重に、直接申し入れたとされます。
ちょうどこの頃、北条政子は、比企能員の屋敷にて、長男・源頼家を産もうとしていた月であり、北条政子の怒りを恐れた、新田義重は、すぐに、祥寿姫を師六郎に再嫁させました。
この師六郎なる人物は、全く不明です。
そのため、源氏一門でもある新田氏は、冷遇を受けることになったと吾妻鏡に記載されています。
正解に申し上げれば、祥寿姫は、妾にはならなかったと言う事が言えますが、源頼朝の浮気未遂として明記させて頂きました。
ただし、前夫・源義平の妻になったのが、15歳だったと仮定すると、1182年の段階で、祥寿姫は、36歳くらいの年齢だったと推測できます。
もっとも、源頼朝は35歳くらいで、北条政子は25歳くらいですが・・。
この3ヶ月後、下記にてご紹介する、亀の前の事件となります。

祥寿姫を2分でわかりやすく解説~新田義重の娘(源義重の娘)で源頼朝が恋文を出す

亀の前

亀の前(かめのまえ)は、源頼朝が、伊豆で流人暮らしのときから、仕えていた女官(侍女)で、良橋太郎入道の娘とされます。
吾妻鏡によりますと、顔が色っぽいばかりではなく、性格も優しいとあり、源頼朝が鎌倉に入った頃から、浮気に行く回数が増えたとあります。
小中太光家の逗子・小坪の屋敷に住まわせると、源頼朝は、由比ガ浜へみそぎに行くと言って、外出したと言います。
その後、源頼朝の側近である、逗子・飯島の伏見広綱の屋敷に移していました。
1182年、北条政子が長男・源頼家を産んだあと、北条時政の後妻・牧の方から、源頼朝が浮気していると知らされます。
北条政子は、牧の方の父・牧宗親に命じて、亀の前が住んでいた伏見広綱の屋敷を破壊させました。
この時、亀の前は、伏見広綱に連れられて、命からがら、鐙摺城大多和義久の屋敷へ逃れたとあります。

鐙摺城

源頼朝は、牧宗親を呼び出して怒ったため、北条政子の父・北条時政は、北条一族と共に、伊豆へ戻る事態となりました。
この後、どうなったのかは、吾妻鏡では1183年の内容は、本が残っておらず、不明です。
ちなみに、北条政子の怒りは収まらず、伏見広綱は遠江へ流罪となっています。
亀の前の詳細は下記にて。

亀の前【源頼朝の妾】おもしろ浮気解説【鎌倉殿の13人】

それにしても、伏見広綱は、京から鎌倉に呼ばれて、源頼朝の右筆になったばかりでして、その後、詳細は不明であり、かわいそうです。
亀の前のその後に関しては、大変、興味深い話がありますので、最後に記述させて頂いています。

丹後内侍(丹後局)

源頼朝の乳母を務め、伊豆での暮らしを支えた、比企尼の長女が丹後局(丹後内侍)となります。
比企能員の妹が丹後局(たんごのつぼね)と言う事にもなります。
丹後の局(丹後内侍)は、若いころから、源頼朝の侍女などとして、仕えていた可能性もありますが、一般的には京の二条院にて仕えた女房とされます。
この場合の「女房」と言うのは、誰かの妻と言う意味ではなく、朝廷や貴族に仕えた、奥向きの女官(女性使用人)と言う意味になります。
丹後局は、特に「内侍」(ないし)とついていますので、内侍司と言う、天皇の身辺に奉仕した女官のみによって構成される機関に所属していたと考えられます。
恐らくは、和歌にも通じ、教養も高い女性だったのでしょう。
そして、京では、惟宗広言と密かに通じて、島津忠久を生み、離縁したのち関東へ下ると、安達盛長に再嫁したとされます。



1186年6月10日、丹後内侍が病になると、源頼朝は、供2人だけを伴って、安達盛長の屋敷を密かに訪れて、丹後局を見舞いました。
吾妻鏡によると、丹後局が生んだ子は、安達景盛のみとなっています。
この安達景盛が、源頼朝のご落胤であるとする場合もありますが、島津忠久が、源頼朝のご落胤とするケースのほうが多いです。

なぜ、ご落胤伝説があるのか?と申しますと、源頼朝が、かなり丹後局に、気を使っていることから、丹後内侍も源頼朝の御落胤を産んだのではと言う伝説に繋がっている節があります。
神奈川県では、3つの伝承があります。

愛甲の丹後局

丹後局が身籠ると、北条政子は激怒して、畠山重忠に殺害を命じたとされます。
畠山重忠は、家来の本多近常(本多親恒)を使って、由比が浜に誘い出しましたが、身代わりを立てて、丹後局を逃したと言います。
その逃走先が、横山党の一族である厚木(小野の里)の愛甲氏の屋敷だともされ、 愛甲季隆が匿ったとも言います。

それを知った北条政子は、愛甲氏館を、焼き打ちしたとも伝わります。
他にも、北条政子が呪いをかけたため、丹後局の髪は、一晩のうちに白髪になってしまったが、丹後局が小町神社の祭神・小町姫に、17日間の祈願をかけたところ、前のような黒髪に戻ったともあります。
この小野姫と言うのは、横山党の租・小野氏での伝説の美女・小野小町でして、丹後局は、小野の里に小町神社を建てたとされています。
小野小町の伝承も、日本全国にあるので、その一環と言う事が言えるでしょう。



その後、丹後局は、本田次郎近常に連れられて、大阪へ逃れ、和泉国で男子を生んだともされますが、お隣の摂津・住吉に辿り着いて、産気づいた丹後局は、住吉大社の境内にて、傍らの大石を抱きながら男児を出産したともあります。
その子は、丹後局が再嫁した惟宗広言のもとで養育され、7歳のとき、鎌倉にて父・源頼朝と対面し、畠山重忠より一字を得て惟宗忠久(これむねただひさ)と称したとあります。
ただし、島津忠久(惟宗忠久)は、別の伝承では、八重姫との子ともあります。

大庭の丹後局

更には、神奈川県茅ヶ崎市西久保の茅ヶ崎JCT直下にある「懐嶋山の碑」(えな塚)は、源頼朝と丹後局との間に生まれた子の胎盤(胞衣)が、納められたと伝わります。
この話の場合、身籠った丹後局は、懐嶋郷の領主・大庭景能(大庭景義)の屋敷(懐嶋館)に匿われ、その後、西久保の桜屋敷にて、男子を出産しとなっています。
そして、三郎と名付けられ7歳になった男子は、1185年、源頼朝と対面し「島津忠久」と名乗ったとあります。
<注釈> 懐嶋山の碑(えな塚)は、大庭景能の墓ともされます。

上矢部の丹後局

もうひとつは、北条政子に鎌倉を追われた、身重の丹後局は、上矢部(神奈川県横浜市戸塚区上矢部町)で産気づき、狐火を頼りに、男子を出産したとあります。
日が暮れたため、民家に一夜の宿を請うも、相手にしてくれず、伊勢の宮にて休んだと言います。
すると、産気づき、闇夜にいくつもの狐火が、灯って、周囲が明るくなり、難なく男子を出産したとされます。
丹後山・神明社にて、源頼朝の愛人・丹後局が、出産したとの伝承が残されている次第です。
翌日、赤子の声が聞こえため、村人が事情を聴くと、源頼朝の愛妾・丹後の局であることがわかり、見晴らしの良い場所に、家屋を建てて、住まわせたと言う事になっています。
丹後局の墓と伝わる塚があり、現在は、丹後の局供養塔となっています。

丹後の局・供養塔

この武蔵・谷部郷(矢部郷)は、三浦一族である津久井義行の子・矢部為行(谷部太郎、矢部庄司為行)が領していたものと推測できます。
詳しくは下記にて。

横浜市戸塚区上矢部町の伝承「丹後の局・供養塔」「丹後山・神明社」



以上ですが、小生としては、丹後内侍と、丹後局は、別人、別々の女性だと推測しています。
話が長くなるので、この源頼朝の妻・妾の記事では省略させて頂きます。
詳しくご存知になりたい方は、誠に恐れ入りますが、下記をご確認頂けますと幸いです。

丹後内侍 丹後局 2人の解説【島津忠久の母】

大進局

確実に源頼朝の庶子(男子)を産んだのは、この大進局になります。
大進局(だいしんのつぼね)は、常陸入道念西の娘(常陸介藤原時長の娘)とされます。
諸説ありますが、父は藤原光隆(中村光隆)の子で、源為義の娘が産んだ、伊達朝宗のことだと考えられています。

大進の局は、鎌倉幕府大倉御所に仕えた女房でしたが、秘かに源頼朝の寵愛を受けていたとされます。
そして、1186年2月26日、男子・亀王丸(貞暁)を産みました。
1186年は、北条政子が次女・三幡(さんまん)を産んだ年であり、吾妻鏡によると、北条政子に気兼ねして、長門景遠(長門江七景遠)の別邸にて出産したとあります。
亀王丸の出産においても、儀式はすべて省略され、乳母のなり手もいなかったようです。
そして、北条政子の知るところとなり、長門景遠は勘気を受けて、10月には、鎌倉・深沢にて隠居を強いられました。
大進局と亀王丸(貞暁)も、深沢に移ったと考えてよいでしょう。



1192年、北条政子が源実朝を妊娠すると、生まれる3ヶ月前に、大進局が産んでいた貞暁(7歳)は、仏門に入れられることが決定し、京の仁和寺へ送られて出家しました。
亀王丸(貞暁)は、一条能保に付き添われて、仁和寺の勝宝院に入り、最初の法名は能寛と称しています。
また、大進局も京に移ったとみられ、源頼朝から伊勢国三箇山などの領地が与えられています。

1219年、公暁が鶴岡八幡宮にて、源実朝を暗殺していますが、公暁は、貞暁の弟子でもありました。

大進局は出家して禅尼になっていたようで、法印行寬(源行家の子)の世話を受けて余生を過ごしたようです。
貞暁が亡くなった際には、禅尼が深く嘆いたと、藤原定家の日記「明月記」に記載されています。
なお、伊達正統世次考では、大進の局は、晩年、伊達郡山戸田にて隠居生活したと伝えています。
大進の局の死後、その遺領が、伊達一族の山戸田氏に譲られている記録があることから、移住した可能性はあるでしょう。

大進局の解説~源頼朝の寵愛を受け貞暁を儲けた伊達氏の娘

妙悟尼

吾妻鏡では、1194年閏8月1日、源頼朝が、白浪と青山で極めて優れた景色を有する三崎の津に、山荘(別荘)を建てることにしたとあります。
その山荘は合計3つあり「椿の御所」「桜の御所」「桃の御所」と呼ばれていたと言います。
そのうち、三崎の「椿の御所」には、妾として妙悟尼が住んでいたとされます。

一説によると、向ヶ崎にある永塚氏の娘で、長塚家のことを「小大椿」と呼ぶとも言い、本名を妙子だったともされます。
向ヶ崎は、まさに、椿の御所があった場所ですので、実家近くに住んだとも言えます。
岩間尹氏の著書「実録三浦党」によると、下記のような記述があります。



頼朝は妙子を三浦義明の三男・大和田義久に託して、三崎の椿御所に居宅を設けてかくまい、三浦党よりの招待に事寄せて、度々ここを訪れ静養した。
頼朝は妙子を鎌倉伏見広綱の許に託しておいたが、北条時政の後妻の牧の方がこの事を知って、政子に告げたため、性来妬悍の政子は、牧宗親に命じて広綱の家を破壊して、妙子を放逐した。
妙子には、三崎の椿御所に居宅を設けてかくまい、三浦党よりの招待に事寄せて、度々ここを訪れ静養した。

あれれ、出ましたね。
亀の前の話、そのものです。
となりますと、妙悟尼(妙子)は、亀の前と同一の女性だったとも推測できます。
実際問題、亀の前のその後に関しては、よくわかっていませんので、もし、亀の前が妙子であり、三崎で生き延びていたのであれば、ちょっと、ホッと致します。

源頼朝は、1194年9月6日、1995年1月25日と8月26日と、4回も三崎に出かけていることが確認できます。
1199年、源頼朝が死去すると、その女性は出家して、妙悟尼と名乗り、源頼朝の菩提を弔いました。
三浦半島の三崎港に近い大椿寺(だいちんじ)と言う寺が、妙悟尼の屋敷跡だと伝わります。
その大椿寺は妙悟尼が開基で、開山は鎌倉建長寺の旭永和尚となっています。
妙悟尼の墓も境内にあるようです。

新編相模風土記稿では、下記のように記載されています。

法名大椿寺法円妙悟尼、寛喜二年(1230年)正月廿五日逝去す、宮川村に墓あり、寺記に妙悟尼は頼朝の室なりと云ふ、頼朝の夫人は政子にて事実卒年等も符合せず、こは全く鎌倉の侍女にて、後剃髪し此地に住せしならん。

ただ「妙」(みょう)と言う字は、妙一尼など、法華経を信仰した女性の多くに使われる法名の字でもあり、他の女性である可能性もあるのが、唯一、気になるところです。
例えば、千葉氏一族である、相馬胤顕(泉胤顕)の後妻は、尼妙悟ともされ、妙悟尼の尼の字が、前についた状態です。



2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源頼朝を俳優の大泉洋さんが演じられます。

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