安達盛長の解説 源頼朝を長く支えた側近【鎌倉殿の13人】

安達盛長

安達盛長 (あだち もりなが)は、鎌倉時代初期の武将で、小野田兼広(または小野田兼盛)の子として1135年に生まれました。
ただし尊卑分脈では、藤原北家魚名流の藤原山蔭の後裔で、藤原遠兼の弟が安達盛長で、兄が足立遠元ともされますが、確証が得られません。
このように、安達盛長の出自は不明なところがあります。
通称は、安達藤九郎です。
いずれにせよ、源頼朝の乳母・比企尼の長女で、比企掃部允の娘である丹後内侍を妻にしました。
丹後内侍(たんごのないし)は、京の二条院にて女房(女官)となっていましたが、貴族・惟宗広言と密かに通じて島津忠久を生んだとされています。
離縁して関東の実家に赴いたあと、安達盛長に嫁いだと言う事になります。
この縁で、安達盛長は、源頼朝が伊豆・蛭ケ小島に流刑となっている時から、郎党に加わって仕えました。



源頼朝と北条政子との間をとりもったのも、安達盛長とされ、1180年の挙兵にも従いました。
石橋山の戦いに敗れ、源頼朝と安房国に逃れましたが、源頼朝の使者となって、千葉常胤を説得するなど、関東武士の取り込みに成功し、鎌倉入りに大きく貢献しました。
また、右筆・藤原邦通を、源頼朝に推挙するなどしています。
国内公領の収税事務を管轄したため、平氏追討には従軍せず、鎌倉幕府の基盤整備を行ったようです。

1184年頃からは、上野国の奉行となり、1189年、奥州合戦でも活躍すると、陸奥国安達郡を与えられて、安達氏を称するようになった模様です。
鎌倉幕府では、評定衆・引付衆を務め、源頼朝からは信頼が厚く、よく、鎌倉の安達盛長の屋敷を、訪れていることが見受けられます。
丹後内侍が病になると、源頼朝は供2人だけ連れて、安達盛長の屋敷を密かに訪れて見舞い、願掛けも行ったと言います。

同時期の女性として「丹後局」もいますが、御台所女房の「丹後局」と、安達盛長の妻「丹後内侍」は、別人と考えられるのが妥当です。

1199年1月、源頼朝が死去すると、出家して蓮西と名乗りました。
2代将軍・源頼家のとき、有力御家人による「十三人の合議制」となりますが、そのひとりに安達盛長の名があり、鎌倉幕府の幕政に参加し、三河守護にもなっています。

安達盛長の嫡男・安達景盛(あだち-かげもり)には、美女の妾がいましたが、1199年7月から8月にかけて、源頼家の命を受けた中野能成・和田朝盛・比企宗員・小笠原長経らが、安達景盛の留守中に愛妾を奪おうとします。
このとき、北条政子が救ったとされます。
そのようなこともあり、梶原景時の変では、源頼家を擁護していて、梶原景時を追放する、強硬派としての一面も見せました。
安達盛長は、1200年4月26日に死去。享年66。

伊豆・修善寺には、安達盛長の墓といわれる宝篋印塔があります。



家督は、安達盛長の嫡男・安達景盛が継ぎ、鎌倉幕府3代将軍・源実朝と北条政子の信頼厚い側近となりました。
そして、安達景盛の娘・松下禅尼が、3代執権・北条泰時の嫡子である北条時氏に嫁ぎ、4代執権・北条経時、5代執権・北条時頼を産んでいます。
安達氏は、鎌倉時代末期、北条氏以外では最有力の御家人となり、安達時顕は長崎円喜らと共に幕政に関与しました。
新田義貞に攻められて、鎌倉幕府が滅亡した際に、安達時顕は、北条一門と共に東勝寺にて自害しています。

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、安達盛長を俳優の野添義弘さんが演じられます。

源頼朝の生涯【鎌倉幕府・征夷大将軍】旧相模川橋脚も
牧の方 (北条時政の継室) 解説【流れをわかりやすく】
北条政子とは【尼将軍と呼ばれた御台所】
丹後内侍 丹後局 2人の解説【島津忠久の母】
阿野全成の解説 源頼朝の兄弟で母は常盤御前
足立遠元の解説【鎌倉殿の13人】文武両道の鎌倉武士
源頼家 5分でよくわかる解説【鎌倉幕府第2代将軍】
梶原景時の生涯と最後の住まいであった梶原景時館跡
比企能員(ひき-よしかず)の解説【比企能員の変】
阿野全成の解説 源頼朝の兄弟で母は常盤御前
大江広元~鎌倉幕府の源頼朝に助言した初代政所別当と方園寺
源範頼の解説 源義経の次に処罰された源氏

フィードバックする

関連記事一覧

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

コメントするためには、 ログイン してください。