安達盛長の解説 源頼朝を長く支えた側近【鎌倉殿の13人】

安達盛長

安達盛長とは

安達盛長 (あだち もりなが)は、鎌倉時代初期の人物で、三河・小野田荘の小野田兼広(または小野田兼盛)の子として1135年に生まれました。
ただし尊卑分脈では、藤原北家魚名流の藤原山蔭の後裔で、藤原遠兼の弟が安達盛長で、兄が足立遠元ともされますが、確証が得られません。
このように、安達盛長の出自は不明なところがありますが、生涯、無官であることからも、名門の出ではないことは確かです。
小野田氏が出自の場合、小野田氏は流人の世話係を務める家柄だったからという事が言えそうです。
下記写真は、鎌倉の安達盛長屋敷跡。

鎌倉の安達盛長屋敷跡

恐らくは、姓を持たない雑色男だったのが、安達盛長の若い頃と考えられます。
出自に関しては、下記にて詳しく触れています。

安達盛長館(安達盛長屋敷跡・埼玉県鴻巣市)~安達盛長の出自も調査

源頼朝より13歳年上とされる安達盛長の通称は、藤九郎盛長となり、晩年に安達姓がついています。
いずれにせよ、源頼朝の乳母・比企尼の長女(比企掃部允の娘)とされる丹後内侍を妻にしました。
丹後内侍(たんごのないし)は、京の二条院にて女房(女官)となっていましたが、貴族・惟宗広言と密かに通じて島津忠久を生んだとされています。
離縁して関東の実家に赴いたあと、安達盛長に嫁いだと言う事になります。
この縁からか?、安達盛長は、源頼朝が伊豆・蛭ケ小島に流刑となっている時から、郎党に加わって仕えていました。
所領は、武蔵・鴻巣(安達盛長館)付近となり、娘・亀御前が、源範頼の正室となっています。



源頼朝と北条政子との間をとりもったのも、安達盛長とされ、1180年の挙兵時には、波多野氏や山内首藤氏などに、参陣を呼び掛ける役割を果たしました。
石橋山の戦いに敗れ、源頼朝と安房国に逃れましたが、源頼朝の使者となって、千葉常胤を説得するなど、使者として関東武士の取り込みに成功し、鎌倉入りに大きく貢献しました。
また、妻の紹介なのか?、右筆・藤原邦通を、源頼朝に推挙するなどしています。
国内公領の収税事務を管轄したため、平氏追討には従軍せず、鎌倉幕府の基盤整備を行ったようですので、武士の役目よりは、役人と言えます。

鎌倉の安達盛長屋敷跡

1184年頃からは、上野国の奉行にもなり、1189年、奥州合戦のあと、陸奥国安達郡を与えられています。
鎌倉幕府では、評定衆・引付衆を務め、源頼朝からは信頼が厚く、よく、鎌倉の安達盛長の鎌倉屋敷を、訪れていることが見受けられます。
丹後内侍が病になると、源頼朝は供2人だけ連れて、安達盛長の屋敷を密かに訪れて見舞い、願掛けも行ったと言います。



同時期の女性として「丹後局」もいますが、御台所女房の「丹後局」と、安達盛長の妻「丹後内侍」は、別人と考えられるのが妥当です。

1192年には、安達盛長が、相模・三田郷の八幡神社を再建したとあるため、三田郷が領地のひとつだったようです。

源頼朝の死後

1199年1月、源頼朝が死去すると、出家して蓮西と名乗りました。
2代将軍・源頼家のとき、有力御家人による「十三人の合議制」となりますが、そのひとりに宿老・安達盛長の名があり、鎌倉幕府の幕政に参加し、三河守護にもなっています。
ただし、生涯「無官」に終わっていることが、藤九郎盛長の身分が低かったことを、物語っています。

安達盛長の嫡男・安達景盛(あだち-かげもり)には、美女の妾がいましたが、1199年7月から8月にかけて、源頼家の命を受けた中野能成・和田朝盛・比企宗員・小笠原長経らが、安達景盛の留守中に愛妾を奪おうとします。
このとき、北条政子が救ったとされます。
そのようなこともあり、梶原景時の変では、源頼家を擁護していて、梶原景時を追放する、強硬派としての一面も見せました。
安達盛長は、1200年4月26日に死去。享年66。



伊豆・修善寺には、安達盛長の墓といわれる宝篋印塔があると言う事で、行って参りました。

安達盛長の墓

安達盛長の墓は、修善寺から梅林へ続く途中の中腹にあります。
なんで修善寺にあるのかは、よくわかっていないともされますが、遺言にて設置されたようです。
安達盛長の娘が、源範頼の妻になっていることから、修善寺で亡くなった源範頼を追いかけた、安達盛長の娘の墓だったのでは?とも感じてしまいます。

安達盛長の墓

修善寺も観光して徒歩で向かうと10分くらいですが、その梅林入口に10台ほどの駐車スペースもあります。
その駐車場からちょっと5mほど、入った登山道脇に、安達盛長の墓がありました。
場所が若干わかりにくいので、当方のオリジナル地図関東で、ポイントしておきます。



安達氏一族之供養塔

下記は、埼玉県鴻巣市にある、安達盛長館跡(放光寺)にある安達盛長の墓(安達公の墓所、安達氏一族之供養塔)です。

安達盛長の供養碑

安達盛長の死後、家督は、安達盛長の嫡男・安達景盛が継ぎ、鎌倉幕府3代将軍・源実朝と北条政子から、厚く信頼される側近となりました。
そして、安達景盛の娘・松下禅尼が、3代執権・北条泰時の嫡子である北条時氏に嫁ぎ、4代執権・北条経時、5代執権・北条時頼を、鎌倉の安達邸にて産んでいます。
安達氏は、鎌倉時代末期、北条氏以外では最有力の御家人となり、安達時顕は長崎円喜らと共に幕政に関与しました。
新田義貞に攻められて、鎌倉幕府が滅亡した際に、安達時顕は、北条一門と共に東勝寺にて自害しています。



他に、安達盛長の墓(供養塔)とされるものは、1192年頃から、安達盛長の領地になったと考えられる、相模・飯山に1箇所と、相模・三田(2箇所)あります。

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、安達盛長を俳優の野添義弘さんが演じられます。

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