ヤマタノオロチ伝説「わかりやすく」2分で解説 スサノオノミコト

ヤマタノオロチ伝説

出雲の山間部には「ヤマタノオロチ」と言う、8つの頭と8本の尾を持った巨大な怪物が、暴れていたと言う伝説が日本書紀・古事記に記載されています。
そのヤマタノオロチを退治したのが、アマテラスオオミカミ(天照大神)の弟であるスサノオノミコトです。

スサノオノミコト(建速須佐之男命)は、父・イザナギ(伊奘諾尊)の怒りを買い、天の岩屋に隠れたあと、高天原(たかまがはら)を追放されます。
そして、出雲の斐伊川(ひいがわ)上流にある鳥髪山(船通山)までやってくると、八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)への、生贄にされそうになっていた、美しい少女・櫛名田比売命(くしいなだひめ)と出会いました。
ヤマタノオロチ(八岐大蛇、八俣遠呂智、八俣遠呂知)は、日本神話に登場する伝説の巨大な怪物です。
ヤマタノオロチは、年に1度やってきては、櫛名田比売命の姉妹を食べていました。


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スサノオノミコトは、櫛名田比売命の親に「奇稲田姫をくれるなら、ヤマタノオロチを退治してやる。お前たちは、わしの言う通りにすれば、化け物は必ず退治できる。」と言いました。
そして、垣根を作ると、8つの門も作り、門ごとに8つの棚を設置して、酒を置いたと言います。
これらを総合的に考えますと、ヤマタノオロチは、氾濫したと考えられる、斐伊川の洪水の事で、毎年、甚大な被害が出ていたのでしょう。
そのため、スサノオは、垣根、すなわち「堤防」を築かせては、田んぼが困らないように、水門も設置していたと推測されます。
奇稲田姫(くしなだひめ)は、名前からして、田んぼそのものを象徴しています。
ヤマタノオロチを無事退治したスサノオ(須戔鳴尊)は、奇稲田姫と結婚しますが、新居(須我神社)を造営しているると、積乱雲が立ち上がる様子を見て、歌を詠みました。

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(ご)みに 八重垣作る その八重垣を

これは、日本で初めて詠まれた、最古の和歌とされます。
八雲(やくも)は、特急「やくも」の名称にも使われています。

また、奇稲田姫(くしなだひめ)の父母には、それぞれ手摩霊・足摩霊と「手足を撫でる」意味があることから、クシナダヒメ(稲田比売命)は「撫でるように大事に育てられた姫」との解釈があり「倭撫子」(やまとなでしこ)の語源とされます。


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松江の八重垣神社にて結婚したともされる須戔鳴尊と奇稲田姫は、宮殿(須我神社)多くの子を産み、因幡の白兎でも有名な大国主命(おおくにぬしのみこと)も、そのひとりであるとされます。
大国主は、6世の孫ともされますので、ヤマタノオロチ伝説よりあとの時代に、出雲大社もできたと考えられます。

現在の斐伊川(ひいがわ)は、砂が堆積して、川底が周辺の土地よりも高い川でして、古から何度も洪水を起こしていました。
また、山間部では「砂鉄」が取れるため、採取した際に不要な土砂が川に流れたり、また、近隣の森林を伐採して、木を燃やして製鉄をしていたとも考えられ、人工的に洪水の原因を増やしていた可能性もあります。
ヤマタノオロチを退治したら、鉄の刀である「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)が、出てきてしまっているくらいですのでね。
そんな製鉄の地は、とても貴重ですので、スサノオノミコトは、征服するため、出雲にやってきたと考えるのが妥当でもあります。

斐伊川は日本海に流れていましたが、江戸時代初期の寛永12年(1635年)、川の流れを宍道湖へと変えるなど、大規模な治水工事も行われました。

須我神社【日本初之宮】スサノヲノミコトが宮殿を造営した地
出雲・熊野大社【日本火出初之社】
山陰地方の史跡・観光のカーナビにも便利な地図

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