古荘氏(古庄氏)の考察 大友氏の発祥地とも言える厚木の豊かな地

古荘氏(古庄氏)

古荘氏(古庄氏)とは

古荘氏(古庄氏)の発祥は、相模国愛甲郡古庄(小鮎村上古沢・下古沢)とされます。
この付近は、水も豊かな恩曽川の上流域で、相模川に繋がる田園地帯でもあり、訪れてみると、洪水がほぼ無縁で、豊かな土地だったこともわかります。
古荘の読み方は、ふるしょう、ふるそう、こしょう、こそう、こじょう と、いくつもあります。
その名の通り、荘園の由来からも、古くから栄えていたのでしょう。
周りは毛利荘と考えられるため、毛利荘の中に、古庄郷があると言う漢字です。
ちょっと前までは、集落の道路も、大型車がすれ違うのが大変なくらい、狭いところでした。(渋滞を引き起こしていたため、現在は改良されています。)

平安時代末期に、八王子を拠点としていた「横山党」の一族が、相模国にも進出しました。
この厚木には、愛甲館の愛甲季隆、依知(金田)に本間義忠、海老名に海老名季貞、萩野に萩野季時など、厚木一帯は横山党の一族が治めています。
このことを考えますと、古荘も横山党の支配下であった可能性は、充分に考えられます。


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源頼朝鎌倉幕府を開くと、北条時政と有力御家人と争いが頻発しますが、親戚でもある和田義盛に味方した和田の乱(1213年)にて、横山党は多くの一族を失い、没落しました。
横山党が有していた領地の多くは、初代別当の大江広元に与えられています。
古荘から北に1kmと、すぐ近くの毛利荘に、大江広元の4男・毛利季光が入っています。

大江広元は、子供の頃、中原広季の養育を受けていたともされ、晩年の出は中原広元(なかはら-の-ひろもと)と称していました。
その養父・中原広季の子ともされる御家人に、中原親能(藤原親能)がいます。
この中原親能は、鎌倉幕府十三人の合議制のひとりに、大江広元と共に抜擢されており、鎮西奉行も務めていました。
鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)と言うのは九州の御家人を統制する役目です。
また、中原親能の妻は、波多野経家の娘・亀谷禅尼ともされ、子に中原季時がいます。
中原親能は1209年に死去、中原季時(なかはら-の-すえとき)は、1236年に死去しています。

その間、吾妻鏡にて、1213年の段階で、古庄能直(大友能直)は、中原親能の「養子」と見えますが、1223年に亡くなっています。
1172年生まれである古庄能直(古庄左近将監能直)の母は、波多野経家の3娘・利根局(戸禰局)とされ、後年、母の化粧領である相模・大友荘(小田原の相模・和田屋敷付近)を継いで、大友氏を称したとあります。
この大友能直(おおとも-よしなお)の実父は、古庄郷司である古庄能成(近藤能成)とされますが、この古庄左近将監能成なる武将の出自が気になりますので、更に調べてみました。


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平安時代末期に、平知盛の目代として武蔵・戸塚郷に入った武将に、武藤頼平(むとう よりひら)がおり、子の武藤資頼(1160年~1228年)は、大友能直と共に鎮西奉行に就任し、少弐氏へと続いています。
この戸塚にいた武藤頼平の兄が近藤能成(こんどう-よししげ)で、古荘に住むようになり、古庄能成と称した模様です。

なお、藤原氏秀郷流とされる近藤氏の発祥と申しましょうか、近藤姓の始まりは、官名である近江掾の「近」と、藤原の「藤」とを結び付けて、近藤太と称したのが近藤氏の始まりと考えられます。
戦国時代になると近藤氏は、穴山信君の家臣でも見受けられますが、徳川家康に従った近藤秀用も有名です。

この古荘・古庄が、厚木で間違いないと仮定した場合、古荘・古庄を収めた順番としては、下記のとおりになります。


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平安時代の末期、最初は古庄能成で、養子もと称した。
古庄能成(近藤能成)と武藤頼平は、平知盛に従っていたため、源頼朝によって所領を没収されたと推測され、養子の古庄能直は、母の大友郷に入って大友能直と称した。
古庄郷付近は、横山党に恩賞として与えられたと推測される。
1213年、和田合戦のあと、大江広元に与えられ、周りの毛利荘に、大江広元の4男・毛利季光が入って付近を領した。
古荘にいた可能性がある横山党の小野高通(古庄高通)は所領を失い、出雲・神西城へ下向したと推測される。
のち、毛利季光の子孫は安芸の領地に下向して、戦国大名毛利元就に繋がり、古庄能直(大友能直)の子孫は九州の領地に下向して、大友宗麟に繋がった。
近藤氏としては、北条氏照の重臣・近藤綱秀などがいる。

そんなこんなで、古荘氏(古庄氏)の居城(館)は、鎌倉時代ですでに消滅していたと考えられ、推定地・場所も不明と言えますが、本照寺の近くと推測されます。

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