厳島合戦 勝利の要因は村上水軍のみにあらず 毛利直轄水軍にあり

厳島合戦

戦国時代の1555年、厳島合戦が起こります。
毛利元就が中国地方の覇権を獲得する上でポイントになりました。

大内氏を滅ぼした家臣の陶晴賢率いる2万の大軍に対し、
毛利は4千~5千。数に大きな差はありましたが、調略、奇襲を駆使し、
毛利勢が勝利しました。

この戦は、厳島という島が舞台になってるため、水軍の活躍が
かかせませんでした。つまり水軍の三村上氏(因島、能島、来島)の動向が
勝敗をわける重要な要素となっており、毛利氏が陶氏に勝てたのも
村上水軍が味方についたから」という認識が一般的であります。


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たしかに、村上氏の熟練の数百艙の船団が毛利氏に味方したことは、
大きなプラスになったことは事実としてあります。

しかし、前哨戦~厳島合戦までの間、村上水軍はとくに何もしておらず、
合戦当日も、遠巻きに船団を組み敵を逃がさないようにする、というリスクの
低い役割を担っていました。元就から見た村上水軍の戦略上の価値は
「味方にして大いに働いてもらう」のではなく、「敵にまわらないこと」
「敵味方への士気の影響」だったと推察されます。

むしろ、リスクをとって厳島での戦闘の前哨戦から、水軍の主力となり
活躍したのは毛利直轄水軍(児玉氏・飯田氏)でした。
厳島合戦の水軍を語る上では、毛利水軍こそ評価されるべきのように思えます。

厳島合戦の勝利は、毛利水軍の活躍あってこそ。

元就は水軍に対してどのような考え方をもち、
その水軍は厳島合戦ではどのような活躍をしたのでしょうか?

さっそく見ていくことにしましょう。

厳島合戦における村上水軍への評価

厳島合戦は「村上水軍が毛利氏に味方をしたのが勝因だ」と
一般的に言われており、毛利水軍の活躍に関して注目が集まることが
あまりありません。


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厳島合戦のことを記録している資料はいくつかあります。
その中の「武家万代記」では、厳島合戦前の三村上氏と毛利氏のやりとりを
以下のような趣旨の内容で記録しています。

・1555年9月初旬、因島村上氏へ毛利氏の味方になることを依頼、了承する。
・能島村上氏からは、毛利氏への警護をする旨、連絡が届く。
・来島村上氏は主家である河野氏が陶氏と不仲だから毛利氏に味方する。
・155年9月28日、三村上氏の船は桜尾に到着。
 元就はたいそう機嫌がよく、三村上氏と対面して酒食でもてなした。
・「皆様が味方になり、海上を警固してもらえれば安心です」と言った元就に対し、
 能島武吉は「敵が大軍であっても心配ない。元就様は陸上戦に専念を」と
 述べた。

つまり「毛利氏が村上氏へ援軍を要請。機嫌を損ねぬよう、関係性を構築していった」
そして言外に「このおかげで勝てた」という意味も含まれるように感じます。

元就の水軍への考え方

毛利氏が厳島合戦に三村上氏へ援軍を依頼し、
それが勝利に貢献したことは事実としてあります。
しかし、利に悟く日和見の行動をとる水軍(海賊)に、
深謀遠慮の元就がはじめから強い期待をかけていたとは
考えにくいのではないでしょうか。

元就は、瀬戸内海の軍事・経済両面の重要性を認識しており、
それを守るため水軍の活躍がかかせないことはわかっていたはずです。

・村上水軍のような既存の水軍は強いし、味方になればすぐに戦力なる。
・一方で、いざという時にたのみになるのか、はなはだ疑わしい。
・不利な状況になった場合、離反のおそれも十分にある。

そこで、信頼できる者に水軍を任せ「毛利のために命をすてる水軍」
の創設を画策することになります。

児玉就方・飯田義武 毛利直轄水軍を創設

<元就、水軍の適地:佐東川河口を領有>

毛利氏の直轄水軍の起源は、厳島合戦より14年前にすでにありました。

元就が本拠を置く安芸国は小規模の国人が乱立しており、
国人諸氏は西の大勢力である大内氏・東の大勢力である尼子氏に
従属と離反を繰り返していました。


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水軍の適地である佐東川の河口(現在の広島市太田川下流域)は、
尼子側の武田氏が領有していました。
1541年、その武田氏を大内氏・毛利氏の連合軍が滅ぼします。
この戦いに大きく貢献した毛利氏は、佐東川の河口にある
「川ノ内」の領有権を獲得します。

<譜代の児玉就方・飯田義武に指揮権を譲渡>

川ノ内を支配した元就は、瀬戸内の利権を確保するため
旧武田氏家臣であった川ノ内衆(水軍)に注目しました。
この旧武田水軍の触れ頭であった福井元信や山県就相を
家臣とします。そしてこの水軍の将として、
児玉就方・飯田義武の譜代家臣を任命し、ここに毛利水軍川ノ内衆
が誕生します。
児玉・飯田両氏は、南北朝のころから毛利に従属したというので
水軍成立の1541年時点では、少なくとも150年は仕えていることになります。


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譜代の中でも、とくに主従の関係の長い両氏を水軍の将とした元就。
傭兵としての水軍ではなく、毛利に忠誠を誓う信頼のできる水軍を
創設し、瀬戸内海での飛躍を狙いました。

毛利水軍 厳島合戦での躍動

厳島合戦までの経緯をダイジェストで見ると、以下のようになります。

1、1551年9月 陶晴賢、大内義隆への謀反
2、1554年5月 毛利元就、陶晴賢との決裂
3、1555年6月 前哨戦~元就の領地拡大(安芸の大内領へ進行)
4、1555年10月 厳島合戦
5、以後、毛利氏の防長への領土拡大

つまり厳島合戦は何だったかというと、
「毛利氏の陶氏に対する飛躍を狙った挑戦の最終局面で起きた戦闘」
ということになります。

毛利の飛躍を考えたときに、厳島合戦は重要な要素ではあります。
ただ、陶氏との決裂以後、厳島合戦も含むそれまでのプロセスも重要であり
上記プロセスの2~4に毛利水軍は大きく関与しています。
一方、村上水軍が関わったのは4以降であり、
輸送、警備のリスクの低い任務が中心でした。

毛利水軍の活動は以下の通りです。

・1554年5月  安芸五日市海戦
・1554年9月  能見島周辺海戦
・1555年6月  広島湾上の海戦 陶氏武将・桑原隆祐を討ち取る。軍船の追撃
・1555年10月 厳島合戦 陶氏本陣襲撃、元就本隊を島の裏側へ輸送、海上警備

国力として、陶氏と比較すると圧倒的に不利だった毛利氏。
そのなかでも、劣勢を跳ね返すべく各所で活躍した水軍。
傭兵だと不利な勢力にはなびかず、こうはいかなかったのではないでしょうか。


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元就の深謀遠慮、信頼できる水軍の活動が、
厳島合戦厳島合戦の勝利を手繰り寄せたのではないでしょうか。

(寄稿)渡辺綱

足利直冬 反逆の貴公子 生涯をかけて足利家に反抗した尊氏の次男
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