逆賊の汚名を晴らす「緋の衣」

緋の衣

薩長の恨みを一身に受け、孤立無援状態で戦った会津藩。約1ヶ月にも亘る籠城戦での奮闘も虚しく、ついに1868年(明治元年)9月22日、屈辱の白旗を掲げ降伏しました。

徳川幕府の忠臣として矢面に立たされ、京都守護職を務めた藩主の松平容保と会津藩士達。彼らは単に治安維持のため働いていたに過ぎませんが、最後まで薩長と敵対関係だった会津藩の処遇は当然非道なものでした。

故郷を追われ逆賊の汚名を着せられた会津藩士達は、謹慎後に青森の斗南と蝦夷地へ移住させられます。刀を鍬に持ち替え開拓に従事する決意をした会津藩士達でしたが、蝦夷地へ移住した藩士達は新政府の派閥争いに巻き込まれたのです。

約1年半開拓地や定住先も決まらず宙ぶらりんのまま、厳しい蝦夷地の冬を乗り越え、会津藩士達がようやくたどり着いたのは余市でした。

今ではフルーツ王国として有名になった余市町ですが、その原点は会津藩士達にあったのです。今回は汚名挽回を誓い、未知なる果物「リンゴ」の栽培に挑戦した会津藩士達の話を紹介します。

信頼の証だった「緋の衣」

いつの時代も歴史は勝者が作り変えます。「勝てば官軍負ければ賊軍」の言葉通り、会津藩は長い間賊軍と呼ばれていました。

しかし会津藩主だった「松平容保(まつだいらかたもり)」は、第121代「孝明天皇(こうめいてんのう)」の信頼も篤く誰よりも勤皇家だったのです。



黒船来航以来京の都では、幕府に不満を持つ尊王攘夷過激派の浪人達がのさばっており治安は最悪でした。そこで京の都を守るため、徳川宗家に京都守護職を任命されてしまったのが松平容保です。

しかし容保は自信が病床の身であり、矢面に立つことを畏れた藩内の反対もあって、当初はこの役目を固辞していました。ただ会津藩には、徳川宗家を絶対裏切ることが出来ない家訓があったのです。

初代会津藩主「保科正之(ほしなまさゆき)」は第2代将軍秀忠の私生児で、第3代将軍の家光とは腹違いの兄弟でした。

私生児のため長い間その存在を隠されていましたが、19歳の時に兄家光と対面を果たし、高遠藩主や山形藩主を経て32歳の時に会津藩主となります。

不遇の身だった己を引き立ててくれた兄に感謝した保科正之は、晩年会津の「家訓十五箇条」を作りました。冒頭に掲げられたのは「大君の儀」。何が起きても徳川宗家を裏切ることなく、忠義を尽くさねば我が子孫にあらずだったのです。

結局この家訓を無視することも出来ず、松平容保は京都守護職を引き受けました。1863年(文久3年)12月、京を死に場所に決めた松平容保と会津藩士達は上洛します。

上洛した松平容保は、年明け早々孝明天皇に拝謁。その際孝明天皇から信頼の証として、天杯と緋の御衣を賜りました。これに感激した容保はその衣で陣羽織を作り、常に身に着けています。

また過激派に味方する公家の陰謀で江戸下向の偽勅が下った際は、天皇が御宸翰(ごしんかん:直筆の手紙)を容保に送り引き止めました。

御宸翰の中には「会津を最も頼りにしている」との一文があり、容保は感涙して京と天皇を全力で守ろうと硬く決意したのです。

逆賊の汚名を着せられた会津藩士

上洛した当初の容保は「言路洞開(げんろどうかい)」を掲げ、国事に関わる意見を大小構わず聞くという方針を取りました。

不逞浪士が暴れるのは、幕府に声が届かないからだと考えていたのです。しかし1863年(文久3年)2月22日、三条河原に室町幕府の歴代将軍、足利3代の木像の首が晒され、徳川家を揶揄する木札が立てられました。

事態を知った容保はこの日から穏健派を辞め、過激派浪人達の取り締まりを強化したのです。翌月からのちの新選組となる、壬生浪士組を会津のお抱えに雇い治安維持に奔走しました。

その後会津は「八月一八日の政変」や「池田屋事件」、第一次長州征伐などで出陣し、薩長からの恨みを一身に受けていくことになるのです。



心労が祟り自身も床に臥せる中で、第14代将軍「徳川家茂(とくがわいえもち)」が突然の死去。続いて後ろ盾となっていた孝明天皇も崩御し、公武一体を訴えていた会津の立場はより不安定になっていきました。

1868年(慶応4年)1月鳥羽・伏見の戦いで幕府は敗退し、錦の御旗に慄いた最後の将軍「徳川慶喜(とくがわよしのぶ)」は、容保を連れて江戸に逃走します。

その後あっさりと謹慎して、江戸城を無血開城した慶喜。しかし幕府を血祭りに上げる予定だった薩長の怒りは収まらず、その矛先は結局会津へと向けられたのです。

1868年(慶応4年)4月20日「白河口の戦い」を皮切りに、新政府軍と会津の戦闘が始まりました。当初は会津を救おうと東北の諸藩も立ち上がり、奥羽越列藩同盟を結成。

しかし二本松の戦いに敗れた三春藩が降伏以降、次々と新政府に敗れた東北勢は降伏して、奥羽列藩同盟は崩壊してしまいました。

勢いに乗った新政府軍は1868年(慶応4年)8月21日、会津の県境に当たる母成峠の戦いで勝利し、会津若松の城下へ侵攻します。

満身創痍の会津藩士達は「若松城(鶴ヶ城)」に籠城し、約1ヶ月戦い続けましたが1868年(明治元年)9月22日無念の白旗を掲げ降伏しました。この日から会津は逆賊となり、長きに亘る屈辱の日々を過ごすことになります。

屈辱の緋毛氈に誓った会津復活

9月22日の午後、城の正面にある甲賀町通りには「緋毛氈(ひもうせん:赤い敷物)」が敷かれ、降伏式と城の引き渡しが行われました。

切腹覚悟で現れた松平容保は麻の裃を着て、緋毛氈を進み新政府軍へ降伏謝罪書を提出して江戸へ送られます。

勿論会津藩士達も領土を取り上げられて謹慎処分となり、その後「福島県耶麻郡(現在の猪苗代町)」と「斗南(現在の青森のむつ市)」へ移住させられました。また蝦夷地開拓のために、会津藩士の一部は海を渡ることになります。

多くの仲間を失い故郷も失ってしまった会津藩士達は、降伏式の時に敷かれた緋毛氈を細かく切り取り、各自が屈辱の証として持ち帰りました。そしていつか会津の汚名を雪ぐと、この緋毛氈に誓ったのです。

猪苗代で謹慎処分を受けていた会津藩士の一部は、その後東京に移送され謹慎処分を受けていました。最初に蝦夷地へ向かわされたのは、その会津藩士の内103戸の332人です。



当時開拓事業はまだ兵部省の管轄であり、会津藩士達は兵部省管轄の開拓使団となりました。1869年(明治2年)9月21日、奇しくも屈辱の降伏式から約1年目に、会津藩士達は品川港からアメリカの蒸気船に乗って遠い蝦夷地へと向かったのです。

9月と言っても旧暦のため、現代で考えると11月。初冬の荒れる日本海を数日掛けて移動し、激しい船酔いに襲われながらたどり着いたのは「オタルナイ(現在の小樽市)」でした。

当初兵部省は会津藩士達を石狩当別の開拓に当てようと計画し、ひとまず鰊番屋や遊女宿を仮住まいとして移住させます。しかし同時期、札幌に開拓使出張所が出来ると、明治政府は兵部省に開拓事業を開拓使へ譲れと命じました。

実はこの管轄権の裏に、佐賀藩と長州藩の派閥争いがあったのです。明治維新の中心は薩長土肥ですが、佐賀藩は肥前に当たります。

ただ肥前は薩長に比べると圧倒的に人数が少なく、新政府に携わったものの政権は薩長閥の天下でした。そのため開拓使の管轄権も取られてしまったのですが、おかげでオタルナイにやってきた会津藩士達も巻き込まれてしまいます。

結局石狩当別での開拓は中止され、会津藩士達は移住先を失いました。おりしもその頃、松平容保の罪は許され息子の「松平容大(まつだいらかたはる)」が家名を継ぎ、斗南藩の領主として御家再興を果たしています。

そのため会津藩士達を斗南藩へ戻すか、満州開拓へ移住させるかと、開拓使は処遇を決めかねていました。

しかし御家再興したとは言っても、斗南藩は3万石の小国の上に寒風吹き荒れる不毛な土地。領地を建て直すだけでも必死な藩はこれを受け入れられず、満州の話も中々進まずに会津藩士達は路頭に迷います。

緋の衣を実らせた会津藩士「赤羽源八」「金子安蔵」

進退窮まった会津藩士達は、開拓使次官となった黒田清隆に余市への移住の嘆願書を提出しました。樺太へ移住話はロシアの脅威と圧力が激しくなったせいで、会津藩士達を北方警備として使おうとしていたのかもしれません。

黒田は樺太に赴いた帰り、北海道の視察へと訪れました。宿敵でもある薩摩藩士の黒田清隆に、会津藩士達はどのような思いで嘆願書を提出したのでしょう…。

しかし黒田がこの願いを聞き入れてくれたおかげで、会津藩士達は蝦夷地に入ってから約1年半の時を経て、ようやく新天地を見つけ余市へと向かいました。

今でこそ開けた町ですが、入植したばかりの余市は鬱蒼とした大木や熊笹に包まれ、ヒグマや鹿などの獣がうろつく危険な場所だったのです。

物資も不足しているため開拓は中々進まず、会津藩士達は原野を切り開きながら、春はニシン漁の日雇い秋はわずかに収穫出来た豆を隣町まで売り歩く日々でした。

また余市は道内でも温暖な地ではありましたが、1年の半分は雪に覆われる北国です。そのため田んぼや畑作も上手くいかず、会津藩士達は満足に食べることが出来ませんでした。

想像以上に厳しい生活を耐え忍んでいた会津藩士達に、1875年(明治8年)開拓使からリンゴの苗500本が無償配布されます。



しかしアメリカから導入されたこの苗は、日本人にとって全く馴染みのないもの…。食うや食わずの会津藩士達にとってもリンゴの苗は今すぐ腹を満たすものではなく、ほとんどの人達が庭の片隅に適当に植えただけで終わりました。

放置されたリンゴの木は枯れ、人々の意識から消えかけていた1879年(明治12年)の秋、二人の会津藩士の庭でリンゴが真っ赤に実ります。

その藩士の名前は、「金子安蔵(かねこやすぞう)」と「赤羽源八(あかばねげんぱち)」です。この二人の素性は最近まで詳細は不明でしたが、2015年(平成27年)赤羽源八は高遠藩からの家臣の子孫であることが判明したと長野日報が報じました。

高遠藩と言えば元は諏訪氏や武田信玄の領地であり、ある意味で高遠は敗者達の地と言えるでしょう。また戦国の世が終わり、初代藩主となったのは会津藩の祖である保科正之です。

赤羽源八の祖先はどの時代から高遠にいたのかはわかりませんが、新天地余市で赤いリンゴを実らせ、以後余市の名産品となるきっかけを作ったことに何か因縁めいたものを感じます。

かくして赤羽源八が実らせた品種19号は味も良く、会津藩士達はこのリンゴに「緋の衣」と名前を付けました。勿論この名前の由来は、藩主松平容保が孝明天皇より賜った緋の衣と、屈辱の降伏式で雪辱を誓った緋毛氈からです。

余市町に今も残る会津魂

始めて結実したリンゴは赤羽家の6個、金子家では品種49号(のちに国光と命名される)のリンゴが7個収穫出来ました。

翌年にはなんと1本の木から約50kgのリンゴが収穫されたため、会津藩士達はこれらのリンゴを札幌で開かれた農業博覧会に出品して好評を得ます。

会津藩士達の作るリンゴは美味しいと年々噂となり、余市はリンゴの生産地となりました。また緋の衣は1914年(大正3年)、東京の拓殖博覧会で1位に選ばれています。

そのため余市のリンゴは益々知名度を上げ、緋の衣はついに天皇家への献上品となりました。会津藩士達は緋の衣を約40年間献上し続けたことで、逆賊の汚名を雪いだと言っても過言ではありません。

ちなみに現在皇嗣妃殿下となられた秋篠宮紀子様は、会津の藩士「池上四郎(いけがみしろう)」のひ孫です。これにて名実共に、天皇家と会津藩の絆は再び繋がったと言えるでしょう。

また絶望と希望を胸に秘め、新天地の余市へ根を下ろした会津藩士達。彼らは貧しい暮らしの中でも会津魂を残すべく、いち早く藩校を作り子供たちの教育にも力を入れました。

会津藩では若者達が学ぶ「日新館」でしたが、余市でも日進館の教育方針を引き継いだ「日進館」を設立し、子供たちの教育に力を入れます。

会津時代と同じように什の掟や日新館時代の漢書を用い、会津魂を伝えようとしていました。しかし教科書にするはずの漢書は手元に無く、教科書不足に難儀しています。

その噂を聞きつけた元藩主で斗南藩主となった松平家は、元家臣達のために日新館時代の漢書を集め余市に送り、かつての家臣達に思いを寄せたのです。

会津の汚名を晴らした「緋の衣」は度重なる品種改良の結果、昭和時代には作られなくなり消滅の危機にありました。

最後の1本となった樹は、余市町の吉田農園で育てられていましたが、2000年(平成12年)に入って故郷会津のリンゴ農家の人が緋の衣の存在を知り枝を譲り受けます。

そして故郷に植えられた緋の衣は、2005年(平成17年)に会津の土地で真っ赤な実を付けたのです。その後余市の会津魂を受け継ぎ、現在は「会津藩士のリンゴ」として見事復活を果たしました。

遠い北国で育った緋の衣は、戦後137年の時を経て故郷の会津に根を下ろしたのです。緋の衣はきっとこの先も末永く、会津の行く末を見守り続ける存在となるでしょう。

(寄稿)大山夏輝

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