二宮金次郎 農村復興のレジェンド

二宮金次郎

全国各地の小学校に設置されていた銅像と言えば「二宮金次郎」です。そのため多くの人は名前を認知していますが、どんな人物だったかまでは知らない人が多いでしょう。

かつて明治天皇に「代表的日本人」と呼ばれ、修身の象徴として扱われていた二宮金次郎。戦後は「1円札」の肖像画にもなるほど有名な人物でした。

しかし全国設置銅像数1位だった二宮金次郎像も、今や消滅の危機に晒されています。「歩きスマホを助長する」「児童就労の問題」と、日本人を貶めたい共産主義者たちが現在金次郎像にまで言いがかりをつけているのです。

また「夜中に走り出す」など子供たちにも怪談ネタにされたり、最近では座り込んで本を読み耽る金次郎像まで登場しました。そのため現代における二宮金次郎の扱いは、散々だと言えるでしょう…。

そんな二宮金次郎ですが、彼はただの勤勉化ではありません。二宮金次郎は知恵と実行力で数々の不運や困難を乗り越え、多くの村や人々を救ってきた農業復興のレジェンドだったのです!

災害や不景気などで苦しむ現代人にとって、二宮金次郎の思想と行動力は真の「働き方改革」を教えてくれるでしょう。今回は多くの武家や600もの貧村を救ってきた、二宮金次郎の人生を紹介していきます。

一家離散や貧困に知恵と行動で打ち勝った金次郎

二宮金次郎は1798年(天明7年)相模国栢村(さがみのくにさくらむら:現代の小田原市)で、農家の長男としてこの世に生を受けました。

比較的裕福な家でしたが、学問好きで病弱その上お人好しな父親のせいで、次第に家計は困窮していきます。



金次郎の学問好きは父親の影響が大きかったのでしょう。しかし父親は本などに金をつぎ込み、困った村人に無利子で米や金を差し出してしまう悪癖があったのです。

追い打ちを掛けるように1791年(寛政9年)、村の「酒匂川(さかわがわ)」が氾濫し村中の田畑や家も流されてしまいました。金次郎が5歳の時です。

その後一家は借金と時間を掛けて何とか家を建て直しますが、身体の弱かった父は数年後に眼病を患ってしまいました。そのため金次郎は、わずか12歳で一家を担う役目を背負います。

決壊した酒匂川の堤防工事の夫役に、父親の代わりで参戦することになった金次郎。この時から知恵と行動で示す、金次郎の改革エピソードは誕生します。

堤防工事に参加した金次郎でしたが、やはり大人たちに比べ上手く働けませんでした。当然邪魔者扱いもされたでしょう。

金次郎は幼いながらも自分の不甲斐なさを悔やみ、少しでも役に立ちたいと思案していました。ふと大人たちの足元を見た金次郎は、厳しい土木工事で大人たちの草鞋が1日で痛んでしまうことに気が付きます。

金次郎は家に帰ると夜なべして草鞋を編み、多くの大人たちに配布しました。また仕事が捗らない分、休憩も取らずに働きます。

その結果、邪険にしていた大人たちも金次郎を可愛がるようになり、子供ながらも父の代わりに夫役を務めあげることが出来たのです。

しかしキツイ夫役を乗り切った金次郎に、更なる不幸が襲い掛かります。父親が病からわずか3年後にこの世を去ったため、金次郎はこの日から働きづめの人生がスタートしてしまうのです。

14歳になった金次郎はわずかな畑を耕しながら、朝は「薪取り」夜は「草鞋編み」をしてお金を稼ぎます。銅像の構図となった薪を背負っての学問は、この頃の金次郎を表しているのでしょう。

金次郎は寝る間も惜しみ家計を支えましたが、今度は母親が亡くなってしまいます。一家を支えようとした努力も虚しく金次郎は伯父に引き取られ、弟たちも母の実家に預けざるを得ず二宮家は離散しました。

一文無しから二宮家再興

家族がバラバラになり、伯父の家で農作業をすることになった金次郎。しかし学問は止めませんでした。

伯父は大の学問嫌いで、深夜まで灯りを点けて本を読む金次郎に激怒します。「油が勿体ない」と言い放った伯父の言葉を聞き、金次郎は堤防に菜の花を植え自分の油を作りました。

またよほど伯父の世話になるのが嫌だったのか、捨てられた米の苗を拾い用水掘りに植え、なんと米1俵分も収穫しています。

しかし金次郎は約2年で伯父の家を離れ、親族の家を転々としながら余った田畑を耕し、次々と収穫高を上げていきました。



一家離散してから約6年。働いて収益を上げた金次郎は20歳の時、二宮家再興に取り掛かります。

家の修復や田畑の買戻しなどを済ませ、小作人を雇って農場主となりました。24歳の時にはなんと、一町四反(約1.4ヘクタール)もの田畑を持っていたのです。

5歳から貧困にあえぎ、一家離散まで体験した二宮金次郎。しかしこれらの経験から、「小を積んで大とする事は自然の摂理だ」と人生の指針を得ました。

自分の経験から会得した「積小為大(せきしょういだい)」の教訓を、二宮金次郎は生涯忘れることなく実践していきます。

武家奉公人から武士へ

小作人を雇えるほど豊かになった二宮金次郎。幼少期に苦労した分のんびりと過ごせばいいものを、金次郎は農場経営をしながら武家奉公人としても働き始めました。

小田原藩士の下で働きながら、農場経営で財を成していく二宮金次郎。噂はいつしか小田原藩士家老の耳にも届き、御家再興の依頼がやってきます。

依頼主の「服部十郎兵衛(はっとりじゅうべい)」は、小田原藩の家老職で1200万石の俸禄取り。生活には困らなそうですが、金次郎が生まれた頃に発生していた「天明の大飢饉」の影響で家計は火の車でした。

武士は米で俸禄を貰いますが、基本的に災害時には領民に放出せねばいけません。もし何も無い時には、商人に借金しても領土を守る必要がありました。そのため武士たちは年々、貧乏になっていくのです。

金次郎は服部に「身の丈にあった生活」を約束させ、奉公人も含めて質素倹約を推奨しました。また農場主で財を成していた金次郎には、奉公人や下級武士達からも借金の申し込みが絶えません。

困った人々を救うため金次郎は金を貸しますが、父と同じくタダでは貸しませんでした。返済プランを提案し実践させ、信用できそうな人のみに貸しています。しっかり利息も取り、その儲け分を使って屋敷で使う薪を取るため山も買いました。

また金次郎は皆でお金を使用出来る、現代で言えば「協同組合」のような「五常講」なる相互扶助の金融システムを作ります。誰でも入れたわけではありませんが、「仁義礼智信」の徳を守れる人を会員にして困った時は互いに助け合いを行いました。

6年~10年と諸説ありますが金次郎は服部家の財政をしっかり立て直し、約1000両の借金返済を果たしたのです。その上で約300両も余剰金が出たため、服部は謝礼として金次郎に送りましたが彼はそれを受け取りませんでした。

服部家再興の報を知った小田原藩主の「大久保忠真(おおくぼただざね)」は、領内の農業改革を金次郎に託します。

まずは大久保家の分家であった宇津家の領地、下野国桜町(しもつけのくにさくらまち:現在の栃木県真岡市)の再興を命じられました。

藩主命令による初の農村復興

藩主の頼みでも、即座には請け負わない二宮金次郎。藩主自らが3年掛かりで金次郎を説得しますが、まずは現地調査をしてからだと返答を伸ばしました。

現地に赴いた金次郎は、桜町の荒廃ぶりに驚きます。70年ほど前は約4000俵も年貢を納めるほど豊かな村でしたが年々取れ高が減り、900俵程度しか年貢を納められない貧村となっていました。

人も減り残った農民もやる気を無くし、酒浸りの日々を過ごしている有様…。藩主からの支援もありましたが、改善の見込みはまるで無かったのです。



現地調査を行った金次郎は、悲惨な現実を目の当たりにして大きな決断を下しました。1823年(文政6年)金次郎が37歳の時、ようやく藩主の命に従い桜町の復興に当たることを決めます。

すでに妻子ある身でありながら、金次郎は今まで苦労して手に入れた家や田畑を全て売却し桜町へと赴きました。農民だった金次郎は、この時武士になったのです。

着任するにあたり金次郎は、藩主にいくつかの約束を取り付けていました。まずは年貢米を図る枡のサイズ統一を願いでます。この頃小田原藩ではサイズの違う18種類の枡を使用しており、年貢米をちょろまかす武士が多くいたと言われています。

村の復興については最初の10年間は約1000石、もしそれ以上収穫出来ても新田開発と治水整備に充てる。また復興後も2000石しか年貢は治められないと、年貢の引き下げを認めさせました。

そして復興期間は上役であっても、金次郎に一切口を挟まない事と条件を飲ませ復興に取り掛かったのです。

金次郎はまず村人たちを自立させるため、藩主から出ていた無償の補助金を低金利融資に変更しました。更に現代で言えばミーティングのような、「芋こじ」という寄り合いを作り村人たちの意見交換を行います。

また金次郎は収穫高を上げるため新規農業参入者を集い、衣食住を与え低金利での融資を使って農具を買わせるなどして人や金を集めました。

金次郎の政策に一度は活気付いた村ですが、日を追うごとに問題が勃発していきます。新旧の村人たちでの諍いや上役だった武士の嫌がらせ、無償補助金を使えなくなった村の名主などがこぞって金次郎の邪魔をしました。

更に元農民の金次郎に「口を挟むな」と言われた上役は、小田原に帰ると藩内で悪口を言いふらすようになり、次第に小田原藩内でも金次郎の評判が落ちてしまったのです。

復興は進まず仕事の邪魔ばかりされていた金次郎は、ついに病んでしまいました…。1828年(文政11年)の年末、一ヶ月ほど職務放棄をして引き籠ってしまった金次郎。そして年が明けた正月、金次郎は突如村から消え失踪しています。

「うつ病」だったのではないか?と現在考えられていますが、慌てた村人や藩士たちは金次郎を必死に探しました。

しかし約1ヶ月後、金次郎はふらりと村に戻ってきます。実は失踪中、成田山で21日間の断食修行に励んでいた金次郎。「敵は己の心が創り上げる」と開眼し、改めて復興着手のため自ら帰ってきたのです。

金次郎の心の変化によってか、それとも失踪した金次郎に対しての罪の意識か、その後領民たちの諍いは消え金次郎は仕事にまい進することができました。結果約10年の時を経て、桜町は約2000石の年貢を納めるほどに復興したのです。

報徳思想で多くの人々を助けた復興レジェンド

桜町復興の知らせを聞いた藩主は、金次郎に論語の「以徳報徳(いとくほうとく)」の仕事っぷりだと褒めました。以徳報徳とは、受けた善意には当然善意で応じるという意味があります。

桜町の復興以来、金次郎は「報徳仕法」と謳い生涯農村復興に励みました。すっかり村人の信頼を得た金次郎は、天保の飢饉でも大活躍を見せます。

江戸四大飢饉に数えられる天保の飢饉では、多くの餓死者が出ます。しかし桜町では金次郎の直感で、飢饉を乗り越えることが出来たのです。

ある日夏茄子を食べた金次郎は、秋茄子のような味がすると違和感を覚えました。急いで田畑の作物を調べると、葉が弱っているのを発見します。

長年あらゆる調査を徹底的に行う金次郎は、冷害が来ると早期に判断していました。金次郎はすぐに村人たちへ綿花の畑を潰し、冷害に強い「稗(ひえ)」を植えるように指示します。また備蓄金を使って、米や麦の買い出しも行いました。

万全の備えで桜町では一人の餓死者を出さなかったのみならず、金次郎は近隣に炊き出しも行っています。また藩主の命で、小田原藩内にも備蓄米を放出して領民を救いました。



日本の人口が約125万も減少した天保の大飢饉で、多くの民を救った金次郎の噂は瞬く間に広がります。

金次郎の助けを借りたいと依頼者が殺到し、報徳仕法を学びたいと弟子入り希望者も増えていきました。しかし後ろ盾になっていた藩主の大久保忠真が死去すると、小田原藩内では金次郎を排除しようとする動きになります。

金次郎を敵視した藩士の暗躍と、復興力に目を付けた水野忠邦の意志が一致して、1842年(天保13年)金次郎は幕臣となりました。印旛沼開拓や利根川利水を命じられましたが、幕府と意見が合わず金次郎の案は保留に…。

追い打ちを掛けるように水野忠邦が失脚。行き場を無くした金次郎に、小田原藩は更に領内立ち入り禁止令や、報徳仕法を禁じて金次郎を小田原領内から追い出してしまいます。

失意のまま故郷を跡にした金次郎でしたが、幕府に命じられ他藩での復興支援は続けていました。この頃すでに60歳を迎えていた金次郎。しかし下総、日光山領、相馬藩など多岐に渡り復興事業に着手したのです。

金次郎が生涯で救った村は約600ヶ所と言われており、老年を迎えても精力的に貧村を復興支援を続けていたことが分かります。

現代こそ二宮金次郎の報徳思想で真の働き方改革を!

小田原藩を追放されてから約6年。1852年(嘉永5年)になって、ようやく帰参を許された金次郎。翌年には幕府に命じられ、日光天領の復興に着手することになりました。

70歳を迎える金次郎は老体に鞭打って、下野国今市村(しもつけのくにいまいちむら:現在の栃木県日光市)にやってきます。

金次郎の復興事業はまず村人一人一人の話を聞くために、各家を回る徹底した現地調査から始まります。今市村でも朝夕厭わず村を回った金次郎は、ある日病に倒れてしまい自分では動くことが出来なくなりました。

病床の身でも任務を全うしようとした金次郎は、床に就いたまま息子や弟子に指示を出し、最後の最後まで報徳仕法を伝えたのです。しかし着任からわずか3年後、1856年(安政3年)にこの世を去りました。

のちに相馬藩士で金次郎の弟子であり娘婿でもあった、「富田高慶(とみたたかよし)」の著した伝記「報徳記」が明治天皇の目に留まります。金次郎の功績と報徳思想を知った天皇はとても感激し、宮内庁から活字出版されました。

また明治天皇は初めて作られた二宮金次郎像を買い取り、身辺に置いて大切にしていたのです。相当な感銘を受けたのでしょう、二宮金次郎が亡くなってから約35年目には「従四位」を追贈しました。

二宮金次郎の報徳思想は「至誠・勤労・分度・推譲」を掲げており、簡単に言えば「誠意をもって仕事に励み、身の丈のあった生活をし余った分を譲る」という思想です。

また「徳を積めば自ずと徳は返り、小さなことをコツコツ繰り返せば実りも大きくなる」と、金次郎は生涯私心を捨てて人のために働きました。ちなみに金次郎は学者が大嫌いでしたが、それは実践の伴わない頭でっかちばかりだったからです。

戦後75年が過ぎた今、日本人は大きく変わりました。高度成長期で分度の無い生活に溺れ、バブル崩壊後はリストラや雇い止めで若者達に失われた20年を生み出します。

己の利益や損得ばかりで宝である人材をも捨て、落ちぶれていった企業が増えてきました。残された少ない人材にも還元せず、長時間労働で酷使して使い潰すのです。



新型コロナウィルス騒動で、今また企業の在り方は変化の時を迎えました。今こそ二宮金次郎の報徳仕法で、日本を真の復興を目指す時なのではないでしょうか?

もう一度強い日本を生み出すためには国民全員が薪を背負い、学問に勤しむ必要があるかもしれません。今すぐ座って本を読み耽る、二宮金次郎像を撤去して欲しいものです。

(寄稿)大山夏輝

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