藤井俊長(鎌田俊長、鎌田新藤次俊長) 鎌倉幕府政所の案主

藤井俊長

藤井俊長(鎌田俊長)とは

藤井俊長(ふじい-としなが)は、鎌倉時代の武将(文官)で、別名は鎌田俊長、通称は鎌田新藤次俊長と書きます。
鎌田新藤次俊長は、源頼朝が伊豆で挙兵した際から従っていた武将で、本拠は、伊豆・鎌田城とされます。
一説によると、鎌田俊長は鎌田政清の子ともされます。
1160年、平治の乱で敗れた源義朝と家臣の鎌田政清は、尾張に逃れたところで、長田忠致の館で討たれました。
その後、鎌田俊長は、平家の来襲に備える為、伊豆・鎌田城を築いたとされています。


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ただし、諸説ありまして、尾張で命を落とした、横浜の山田城山を知行していた鎌田正清の子(鎌田光政など)は、みな討死などでいなかったとされ、源頼朝は一人娘に、鎌田氏の名跡を継ぐことを許したともされます。
吾妻鏡では、1194年に鎌田正清の息女が、亡き父と義朝公の菩提を弔うため鎌倉の勝長寿院で供養を行いました。
このとき、源頼朝と北条政子も列席し、この一人娘に所領も与えています。

この一人娘の父・鎌田政清(鎌田正清、鎌田政家、鎌田正家、鎌田兵衛正清)は、藤原秀郷流・首藤氏の一族とされます。
平安末期~鎌倉初期の首藤氏と言うと、源頼朝の乳母を務めた、山内首藤経俊の母・山内尼と言う女性がいます。
一人娘の父・鎌田政清の母は、亡き源義朝の乳母を務めたとされていますので、同じ首藤一族から、乳母(めのと)を出したと言う事でしょう。

そして、源頼朝に仕えた藤井俊長(鎌田俊長)の「俊」の字は、首藤家の宗家筋である山内首藤俊通(山内尼の夫)、山内首藤俊通(山内尼の子)も使っていますので、藤井俊長(鎌田俊長)の出自は、山内・首藤氏と同じ一族の可能性もあるでしょう。
もし、そうだとしたら、藤井俊長が、鎌田正清の一人娘の婿養子となって、鎌田俊長と称したとも推測されます。
ただし、確かめるすべはありません。


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鎌倉幕府が成立した際の政所(まんどころ)四等官は下記の通りです。
政所別当・大江広元
主計の允・二階堂行政
案主・藤井俊長(鎌田俊長)
知家事・中原光家
※案主(あんじゅ)とは文書・記録を司る役職名です。

山田城山 (鎌田氏館) 鎌田政清 (鎌田正清、鎌田政家、鎌田正家、鎌田兵衛正清)
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