秋田実季とは 1分でわかる秋田城介

秋田実季とは 1分でわかる秋田城介

秋田実季(あきた さねすえ)は、脇本城主・安東愛季の次男として戦国時代の1576年に生まれました。
幼名は安東太郎と言い、母は畠山清信の娘です。

1587年、角館城戸沢盛安との合戦中に、父が陣中で病死します。
そのため、僅か12歳であった秋田実季が家督を継ぎました。
しかし、12歳年上の従兄・安東通季(豊島通季)が戸沢氏や南部氏と結び、上国湊安東氏の再興を掲げて反旗を翻し、湊合戦になります。
1589年、緒戦で敗北し出羽・湊城を失い、脇本城も捨てると、秋田実季は檜山城に籠城しました。
秋田実季は300丁の鉄砲で防衛し、約5ヶ月に渡って籠城するなどピンチでしたが、赤尾津城主・赤尾津三郎や、津軽の大浦城主・大浦為信(津軽為信)の支援を受け、大軍を退却させることに成功しました。

1590年には、比内の出羽・大館城を奪回し、大浦為信の口利きにて浅利頼平が復帰しています。
また、豊臣秀吉小田原攻めを行うと、秋田実季は従い、小田原に参陣しました。
ただし、秋田実季はまだ15歳であったため、重臣の蠣崎慶広が同行して補佐しましたが、蠣崎慶広はうまく独立大名として認められています。
奥州仕置では、52440石が認められています。
また、朝鮮攻めの際には、安宅船の建造などのために秋田の杉を伐採・提供するなどして大きく貢献しています。
更に港を整備した土崎湊近くの出羽・湊城を改修して本拠地とし、秋田城介となり秋田氏を称しています。
1594年の検地では98500石までになっています。

秋田実季の正室は円光院(細川昭元の娘)で、側室には瑞峯院(荒木高兼の娘)がいます。

1600年、関ケ原の戦いでは、徳川家康に味方し、上杉景勝に協力した小野寺義道を攻撃するため、出羽・大森城を攻めました。
1602年、佐竹義宣の秋田入りに伴い、秋田実季は常陸・宍戸城に5万石で転封となり、事実上の減封となっています。
1614年、大坂夏の陣にも出陣しましたが、大損害を被っています。

その後、秋田実季の戦国大名らしい気骨が弊害になったともされますが、1631年、江戸幕府の老中・土井利勝と酒井忠世から「所領没収、藩主罷免」を申し渡されました。
常陸宍戸藩2代藩主には、長男・秋田俊季(としすえ)が任じられましたが、秋田実季は幕命により伊勢国の朝熊に流刑となっています。
薙髪して凍蚓と号した秋田実季は約30年、伊勢朝熊の永松寺草庵にて蟄居生活を送り、1660年に死去しました。享年85。
和歌や文筆を残しています。

安東舜季とは
安東愛季 安東氏を大きく飛躍させた戦国大名
出羽・豊島城(豊島館) 畠山重村(豊島重村・豊島休心)と湊合戦
出羽・湊城 戦国時代には湊安東氏の居城
脇本城 日本海の展望も素晴らしい続日本100名城
角館城 6歳で家督を継いだ戸沢道盛の復活劇
横手城 小野寺氏が本拠地にした出羽の拠点
小野寺義道 仙北一揆で所領を減らし関ケ原の戦いで改易
常陸・宍戸城 宍戸義綱 宍戸錠さん?にも関連する宍戸氏

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