木曽義仲(源義仲)とは~わかりやすく2分で「木曽義仲の墓も」

木曽義仲(源義仲)とは~わかりやすく2分で「木曽義仲の墓も」

木曽義仲とは

木曾義仲(きそ-よしなか)は、源義賢の次男として1154年に生まれました。
父の兄・源義朝(源頼朝の父)が京から下って関東の豪族を従えて勢力を付けると父・源義賢は1153年、北関東に入って上野国の多胡館に入りました。
そして、武蔵の最大勢力である大蔵館主・秩父重隆と秩父重弘の親子と結び、大蔵館を本拠として秩父重隆の娘を妻にしています。
木曽義仲の母である小枝御前(さえごぜん)は、遊女だったなど諸説あり正直よくわかりませんが秩父重隆の娘である可能性も高く1154年に現在の鎌形八幡神社にて生まれたとされます。
下記は木曽義仲の産湯(湧水)です。

木曽義仲の産湯

下記は、木曽義仲公誕生之地の石碑がある嵐山・班溪寺。

木曽義仲公誕生之地の石碑がある嵐山・班溪寺

なお、木曽義仲は源義賢の子ですので、正式な名前は源義仲(みなもと-の-よしなか)と言い清水冠者源義高とも称しました。

しかし、秩父重隆の兄・畠山重能は、弟が本家の家督を継いだことに不満を抱いており、鎌倉に入っていた源義朝・源義平の親子と結び、1155年8月大蔵館を襲撃します。
この大蔵合戦にて、秩父重隆と源義賢は討死し、まだ2歳だった駒王丸(木曽義仲)は畠山重能の計らいで逃がされ、斎藤実盛が駒王丸の乳母夫である信濃の中原兼遠のもとへ連れて行きました。
この駒王丸は木曽谷にて成長すると通称を木曾次郎と名乗り、治承・寿永の乱において平家や源頼朝と戦うことになります。


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1180年、後白河天皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう)が、平家打倒を命じる令旨(りようじ)を発すると、木曽義仲は挙兵し一度多胡館に入ると信濃・依田城(上田市丸子)に籠ります。
そして、1181年、越後から討伐にきた城助職を横田河原の戦いで勝利し、北陸へと転進しました。

木曽義仲と巴御前

1183年には、平維盛ら10万の大軍を倶利伽羅峠の戦いで破り、篠原の戦いでも大勝すると、今井兼平、樋口兼光、根井行親、楯親忠らを従えた木曽義仲軍は、沿道の勢力を加えて更に軍勢を増やし京を目指します。

今井兼平

そして、後白河法皇が京に戻された翌日に、木曽義仲も入京を果たし朝日将軍(旭将軍)とよばれると改めて平家討伐を命じられました。
また、京都の警備も木曽義仲が担当しましたが飢餓もあり京は荒れていて略奪も横行し、治安回復には失敗したため後白河法皇が呼び出しています。
配下に勇武の部将はたくさんいましたが、政治に優れた者がいなかったのです。


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信頼回復を狙った木曽義仲は、西国へと平家討伐に向かいますが、水島の戦いにて有力武将の矢田義清が討死するなど戦果が上がりませんでした。
そんな中、仲が悪かった源頼朝の弟・源義経が、鎌倉から数万の大軍を率いて京にのぼってきます。
後白河法皇は、源義経ら源頼朝の鎌倉勢を頼りにすることへ方針転換したため、追い詰められた木曽義仲は後白河法皇捕らえて幽閉しています。
こうして、1184年、宇治川の戦いなどで源範頼・源義経と戦いますが、すでに人望を失っていた木曽義仲の軍勢は脱落者が多く僅かで敗戦となります。
木曽義仲は、北陸へ逃れようとしましたが、粟津の戦いにて数騎にまで討ち減らされ、最後は顔面に矢を受けて討死しました。享年31。
この時、恩田重巴を討ち取るなど巴御前の奮戦は有名で、のち尼となり越中・福光城近くの友松に住んだと言います。


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2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、俳優の青木崇高さんが木曽義仲を演じられますのでワイルドになりそうです。

木曽義仲の墓

征夷大将軍のまま討死した木曽義仲の墓所(源義仲の墓所)は日本全国に4箇所ほどあります。
そのうち、長野県木曽町の2箇所をご紹介申し上げます。

まずは木曽義仲の館があったとされる日義から。

徳音寺

日義の徳音寺には、木曽義仲の霊廟と、墓所の上段に木曽義仲、一段下に樋口兼光、巴御前、小枝御前、今井四郎の墓があります。
下記は木曽義仲の霊廟です。
建立年は後年でしょうが、平安時代末期の武将で霊廟があることじたいスゴイですね。

木曽義仲の霊廟

下記写真の中央・奥が木曽義仲の墓。
左の大きな墓石は巴御前、右は今井四郎の墓。

木曽義仲の墓

徳音寺の墓所は、本堂を左手に進み、その奥・山側にあります。

徳音寺

隣接して義仲資料館「義仲館」も整備されています。

義仲館

興禅寺

木曽福島の興禅寺は木曽氏の菩提寺で、木曽義仲と木曾義康木曽義昌の墓があります。
もともとは、日義の巴淵近くにあったそうですが土石流で流され、現在の場所に移転したと言います。

興禅寺にある木曽義仲の墓は、境内は境内だと思うのですが、塀で囲まれた中にあると言うことではなく、興禅寺の場所から隣接するところにあります。
下記の階段をちょっと上った場所です。

木曽義仲の墓

下記が木曽義仲の墓、木曾義康の墓、木曽義昌の墓と言う事になります。
丁重にお参りさせて頂きました。

木曽義仲の墓

それぞれの史跡がある場所は、当方のオリジナル地図「名古屋・北陸」方面でもポイントしておりますので、よければご確認頂けますと幸いです。

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