上杉憲秋(上杉憲顕)とは 再起を賭けた室町時代の武将

上杉憲秋

上杉憲秋(上杉憲顕)

上杉憲秋(うえすぎ-のりあき)は、室町時代の武将で、犬懸上杉家・上杉氏憲(上杉禅秀)の子となります。
犬懸上杉家(いぬがけうえすぎけ)と言うのは、足利尊氏の子・千寿王(足利義詮)に仕えた上杉憲藤の系統で、関東執事として犬懸(鎌倉市浄明寺)に住みんでいたため、犬懸家と呼ばれます。
上杉憲秋の父・上杉禅秀(上杉氏憲)は関東管領も務めていました。
しかし、上司とも言える鎌倉公方・足利持氏と対立して、関東管領に山内上杉家の上杉憲基が就任したため、1416年、反乱を起こししました。
この上杉禅秀の乱では、岩松満純、那須資之、千葉兼胤、長尾氏春、大掾満幹、山入与義、小田持家、三浦高明、武田信満、結城満朝、蘆名盛政らが、上杉禅秀(うえすぎ-ぜんしゅう)に味方しています。
そして、世谷原の戦い(横浜市瀬谷区)にて、上杉房方・小笠原政康・佐竹氏・宇都宮氏らに勝利しますが、その間に、今川範政が相模を突いたため、上杉氏憲、足利満隆、足利持仲らは鎌倉雪ノ下で自刃し、犬懸上杉家は滅亡しました。


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上杉憲秋は、もちろん、この合戦に参じていましたが、途中で病気になり、その後、京に逃れていたようです。

なお、上杉憲秋は、上杉憲顕(うえすぎ-のりあき)とも書きます。
※上杉憲顕は、同名で山内上杉家の始祖・上杉憲顕がいますが、南北朝時代の武将ですので、別人となります。

1454年頃、関東などに大津波を発生させた享徳地震(きょうとくじしん)により、人々は疲弊します。
こうして、1455年、鎌倉公方・足利成氏が、関東管領・上杉憲忠を暗殺し、室町幕府8代将軍・足利義政と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方の足利成氏と争った享徳の乱(きょうとくのらん)が勃発しました。
この時、上杉憲秋の犬懸上杉家は、上杉持房・上杉教房らと室町幕府側の堀越公方・足利政知に味方しました。

享徳4年(1455年)、古河公方・足利成氏は、関東管領で山内上杉家の上杉憲忠を鎌倉で誅殺し、上杉氏の本拠である上野国へ兵を向けます。
そして、多摩川を渡り、500騎で府中の高安寺に入りましたが、これを聞いた上杉持朝と子の上杉顕房は、長尾景仲や上杉一族2000騎を府中に向けて分倍河原に布陣しました。
そこを、足利成氏が急襲して分倍河原の戦いが発生します。

この時、上杉憲秋(上杉憲顕)は上杉勢の先鋒を務めていたため、手前の立河原(立川市)で襲撃されて、致命傷を負いました。
家臣がなんとか救出し、高幡不動尊(別説には荏原郡池上)まで運びましたが、上杉憲秋は自刃したと言う事になります。
トップの写真は、東京の高幡不動尊にある上杉憲秋の墓(上杉堂)です。


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上杉顕房らは敗北して、同じく自刃し、長尾景仲は残軍をまとめて、常陸・小栗城(茨城県筑西市)まで逃れています。

上杉禅秀の乱 【上杉禅秀の解説】
府中の高安寺城 高安寺 藤原秀郷 分倍河原の戦い
関東の役職である鎌倉公方・関東管領・古河公方などを解説
武蔵・高幡城 高幡城の戦い(東京都日野市) 高幡不動尊も
高幡不動尊とは 新選組・土方歳三の銅像も
関東や神奈川県の城跡などのオリジナル地図

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