安藤守就

安藤守就

安藤守就(あんどう-もりなり)は、戦国時代の美濃・北方城主で斎藤道三の有力家臣である稲葉良通氏家直元らと並び西美濃三人衆のひとりです。
安藤守利(安藤定重)の子として1503年に生まれたとされます。
1556年、斎藤義龍が長良川の戦いで斎藤道三を攻撃した際には、斎藤義龍に味方しました。

しかし、斎藤龍興は美濃三人衆らの話を聞かなくなったため、1564年、娘婿の竹中半兵衛稲葉山城(岐阜城)僅かな手勢で乗っ取った際に、安藤守就は2000を率いて、城下町の占領を担当しました。

1567年、織田信長が美濃攻めを開始すると、西美濃三人衆らは織田家に寝返り、本領および杭瀬川以西の共同段銭(たんせん)徴収権などを安堵されています。
以後は織田氏の家臣として、1570年、姉川の戦いにも参じました。
1571年、伊勢・長島城への攻撃で、安藤守就は負傷しています。
1573年には足利義昭槇島城攻めから、越前・小谷城朝倉攻め本願寺顕如石山本願寺攻めなどの転戦しました。
1577年、柴田勝家の援軍として加賀にも出陣し、1578年には、羽柴秀吉の中国攻めにも援軍として播磨・神吉城への攻撃に参加しています。
また、謀反を起こした有岡城主・荒木村重への包囲にも参じるなど、まさによく働きました。
しかし、1580年、武田勝頼に内通した嫌疑をかけられて、佐久間信盛、林秀貞、丹羽氏勝らと同時期に追放されてしまいます。
そのあとは、稲葉一鉄のもとで蟄居生活を送っていたようです。

1582年、明智光秀本能寺の変を起こすと、安藤守就は子の安東定治と共に挙兵して旧城の北方城を奪いました。
しかし、当時の北方城の領主・稲葉一鉄の反撃を受けると敗れて、6月8日に一族共に自害し美濃・安藤氏は滅亡していてます。
生き残った一族は、縁者であった山内一豊の家臣になっています。

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