三善康信の解説 初代の問注所執事【鎌倉殿の13人】

三善康信

三善康信(みよし の やすのぶ)は、鎌倉時代初期の貴族で、三善康光(また三善康久)の子として1140年に生まれました。
三善氏は、算道(さんどう)と呼ばれた算術を研究する家柄ですので、先祖は漢国東海王の後裔など、渡来人系だった可能性があります。
また、太政官の書記官を世襲していた下級貴族だったようです。
しかし、三善康信の母が源頼朝の乳母の妹だった縁で、伊豆に流刑となっていた源頼朝に、月に3回ほど、京都の情勢を知らせていたようです。
ただ、この源頼朝の乳母の名前が不明です。
源頼朝の乳母は、比企尼(比企掃部允の妻)、寒河尼(八田宗綱の娘)、山内尼(山内首藤俊通の妻)など、何名かいますが、三善康信の母がどの乳母の妹だったのか、不明です。
一番可能性が高いのは、源頼朝が伊豆にいる間の約20年間、経済的支援も行った比企尼(比企掃部允の妻)の妹だと考えられますが、比企尼の出自も、よくわかっていないのが現状です。
なお、1203年の比企能員の変で、三善康信が連座した形跡がないのが気になりますが、その時には、すでに出家してのかも知れません。
出家すると、三善善信と称しました。



三善康信(三善善信入道)は有能な役人として知られていたようで、1183年4月14日に、相摸国の鎌倉へ下向し、鶴岡八幡宮の廻廊で源頼朝と対面しました。
京の故実や芸能にも詳しいことから、伊勢神宮に納める願文の草案を作るなどして、源頼朝を助けました。
そして、1184年10月20日、源頼朝に仕え、鎌倉幕府の問注所執事に就任しています。
問注所(もんちゅうじょ)と言うのは、訴訟問題を処理する機関で、今でいえば裁判所のようなところです。
ただし、鎌倉幕府が成立した当初は、問注所は訴訟の受付窓口のような感じで、判断は、源頼朝が行っていました。
その事務処理を迅速・円滑に行ったのが、問注所の責任者である、官僚の三善康信と言う事でして、鎌倉幕府の基礎を固めたほか、朝廷対策においても助言を行いました。

当初、問注所は、源頼朝の住まい(大倉幕府)の片隅にあったようですが、揉め事の処理を行うところであるため、怒号もよく響いていたようで、のち、三善康信の屋敷に、問注所が移転しています。

源頼朝が亡くなり、2代将軍・源頼家が就任して4ヶ月後、有力御家人の代表による「十三人の合議制」が取られると、三善康信(三善善信)も名を連ねました。

1220年からは、長男の三善康俊が鎌倉に入り、問注所執事を継いでいます。
1221年、後鳥羽上皇が北条義時追討の宣旨を発した「承久の乱」がおこると、三善康信は病気の身を押して軍議に参加し、強硬策の大江広元を支持して、勝利に導いています。
そして、三善康信は1221年8月9日に死去しました。享年82。



また、三善康信の次男・三善康連(みよし の やすつら)は、1225年、執権・北条泰時の命にて「御成敗式目」の条文制定を行った中心人物になっています。
このように、三善氏は法務にも通じていた為、その後、鎌倉幕府が滅んで室町幕府になっても、問注所執事は三善氏の一族が世襲しました。

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、悲劇の源義経を、俳優の小林隆さんが演じられます。

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