奈佐日本之介 (奈佐日本之助)の解説 但馬の海賊王

奈佐日本之介

奈佐日本之介(なさ-やまとのすけ)は、戦国時代の武将で、奈佐日本之助とも書きます。
そもそも、奈佐氏は、但馬國造・日下部氏の子孫で、豊岡の奈佐谷が先祖の地となり、戦国時代には、城崎温泉の北側にある津居山城を本拠とし、山名祐豊に従っていました。

1569年、尼子勝久山中鹿之助らが、尼子再興軍を起こすと、山名祐豊は支援します。
そのため、水軍を率いる奈佐日本之介は、但馬・芦屋城の塩冶高清(えんや-たかきよ)とも連携したようです。
同じころ、織田信長は、但馬への侵攻を開始したため、奈佐日本之介は織田家より「海賊衆」と呼ばれています。



元亀元年(1570年)には、奈佐日本之介が、出雲の満願寺城を占領したようですが、3年後に吉川元春が奪還しています。
やがて、但馬・有子山城の山名祐豊も、織田家に屈服したため、奈佐日本之介は本拠を追われたようで、毛利勢の吉川経家に加勢しました。

天正9年(1581年)、吉川経家が鳥取城入ると、奈佐日本之介は、鳥取城の北側の丸山に出城となる丸山城を築いて守備しました。
塩冶高清も、鳥取城の隣に雁金山城を築いて籠っています。
羽柴秀吉は、南条元続、宇喜多直家らと鳥取城を包囲して兵糧攻めを行いますが、陥落を早めるため、毛利水軍からの補給路になっている可能性がある因幡・丸山城→雁金山城→鳥取城のラインを、遮断する作戦にでました。

宮部継潤が中間地点となる、雁金城を攻撃し、塩冶高清は激戦の末、奈佐日本之介の守る因幡・丸山城へ逃れています。
更に、羽柴秀吉は、因幡沖の制海権を細川藤孝浅野長政に押えさせて、毛利水軍の行動を阻害したため、鳥取城は、補給が困難となり、天正9年(1581年)10月に落城しました。
鳥取城の吉川経家は、自らの命と引き替えに城兵の命を救うことを条件として、降伏を申し出ました。
羽柴秀吉は、吉川経家の武勇を惜しんで助命しようと考えましたが、塩冶高清と奈佐日本之介 (奈佐日本之助)の海賊行為は許さず、この2人には切腹を要求しています。
こうして、10月24日、吉川経家が自刃して鳥取城は開城しましたが、奈佐日本之介、塩冶周防守高清、佐々木三郎左衛門の3名も自刃しました。



なお、主戦派と見られた、但馬山名氏の家臣である中村春続、森下道誉も、同様に切腹したと伝わりますが、不明瞭な点もあります。

因幡・丸山城の西麓に、奈佐日本之介、塩冶高清、佐々木三郎左衛門の3名の供養塔があるそうです。

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