血筋の不幸と父・武田信玄の遺言に苦しんだ武田勝頼

武田勝頼

 戦国随一の名将と評される武田信玄の跡を襲って戦国最強と謳われた甲斐武田氏を率いた武田勝頼(1546~1582)という人物を思うに当たって、真っ先に考え付くのが生まれながらにして『数奇な運命』を背負い続け、「天の時」「地の利」「人の和」に恵まれず、悲劇的に斃れていった人物であるということでしょうか。前回は、勝頼が武田氏の当主になった折、既に戦国群雄割拠の時代が終わり、大勢力・織田信長という天下の覇者が出現していたために、勝頼は「天の時」を得られず滅んだ事を紹介させて頂きました。今回は、武田勝頼が恵まれなかった「人の和」についての紹介をさせて頂きます。
 
 確かに武田勝頼は、鎌倉期以来名門の甲斐武田氏の連枝、更に諸大名に畏敬されている武田信玄の子息(四男)として誕生した、謂わば戦国期のサラブレッド/プリンスを出自としている武将の1人であることは間違いないのですが、それでも勝頼が数奇な運命を持って戦国の世に生を受けたのであります。数奇な運命、それは『血筋の不幸』、そして偉大な父『武田信玄の政略に振り回された』という2点であります。


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 武田勝頼の母方(通称:諏訪御料人)の実家は、全国の武家から尊崇されていた信濃諏訪大社の大祝(おおほうり、神職のトップ)の名家・「諏訪氏」であることは周知の通りであり、またその諏訪氏が1542年に隣接する甲斐の戦国大名・武田信玄(当時は武田晴信)によって滅ぼされ、諏訪氏の忘れ形見である少女の匂いが抜けきらぬ姫、即ち後の諏訪御料人(当時10歳前半の少女であった)が、1545年頃に信玄の側室として迎えられ、その翌年に勝頼(四郎)が誕生しました。
 以上の勝頼の誕生経緯についても、新田次郎先生の『武田信玄』や井上靖先生の『風林火山』などの名著中でも必ず取り扱われる事ですので、よくご存知だと思います。
 武田勝頼は、『母方(諏訪氏)の仇敵』である武田氏の連枝として誕生した、という彼のスタート時点を思うだけでも、勝頼が数奇な運命の持ち主であることがわかるのですが、それに加えて勝頼の生涯(武田氏の家督相続や武田氏滅亡)をも考えると勝頼の運命がよりドラマティックに感じます。また信玄が諏訪御料人を側室として娶る際、武田の一門普代衆から「敵方の娘を娶るとはよろしからず」と婚姻には反対したことも伝わっておりますが、(武家の世で父系の血筋が尊重されるとは言え)、その諏訪御料人の腹から産まれ、成人後に己の母の輿入れを拒否していた武田家臣団の大将となる勝頼の出自の過酷さも思うのであります。
 怜悧な戦略家かつ政略家の武田信玄が周囲の反対を押し切り、敵方の娘である諏訪御料人を娶り、その彼女に子息(四郎勝頼)を産ませたのは、武力によって甲斐武田の分国とした諏訪領の統治を円滑にするための政略が第一目的であり、武田と諏訪の両氏の流れを汲む勝頼に、自身が滅ぼした諏訪氏の名跡を継がせて『諏訪四郎神勝頼』としたのも、信玄の諏訪、ひいては信濃国経略の一環でした。前掲の井上靖先生の名著『風林火山』では、信玄が、正妻・三条の方との不仲もあり、諏訪氏の忘れ形見・由布姫(諏訪御料人)を溺愛し、彼女が産んだ四郎勝頼にも格別な情愛を注いでいたような雰囲気で描かれていますが、史実はそこまでロマンに溢れるものではなく、飽くまでもドライであり、現実主義者の戦略家である信玄は制圧した諏訪領の支配を確固たるものにするべく、諏訪御料人を娶り、男子たる勝頼が生まれたのを幸いに「武田氏配下の諏訪氏の当主」としたのであります。
 武田信玄は、勝頼に諏訪氏を継がせる(再興させる)ことにより、代々諏訪の地を本貫としていた武士や領民を、征服者である甲斐武田氏に心服させ、諏訪の地を円滑に統治するための懐柔策であったのですが、先述のように武田と諏訪の血を引く勝頼は、(悪い譬えですが)信玄にとって『恰好な政略手駒』であったのです。
 因みに信玄は、嫡男・武田義信(太郎、母:信玄正室・三条の方)以外の勝頼を含める自身の子供たちも信濃経略のために、同地の名家や有力勢力に養子あるいは婚姻で送り込んでいます。例えば次男・武田竜芳(次郎、母は信玄正室・三条の方)には、中信地方の名家・海野氏を婿養子として送り込み海野信親とし、三女・真理姫(のちの真竜院)を、南信地方の有力者・木曽義昌に嫁がせて武田氏の親族衆として取り込み、五男・盛信(五郎)にも信濃安曇郡(北信の西方)の国人領主・仁科氏を継がせて仁科盛信としています。
 以上の武田信玄は、勝頼を含める自身の子息たちを信濃の名家および有力者に養子あるいは嫁として送り込むことによって、南北に長い信濃国を甲斐武田氏の領土(属国)として組み込んでいったのでありますが、この養子縁組・婚姻政略は信玄のみの専売特許ではなく、信玄の盟友である相模国(神奈川県)の北条氏康、東海の織田信長、中国地方の毛利元就も、嫡男以外の部屋住みの男子および息女たちを使って養子・婚姻を積極的に展開することによって自家の勢力を拡大していったことは有名であります。
武田勝頼=諏訪勝頼が、父・信玄の戦略的意向によって諏訪氏の当主の座を与えられたということは、信玄は勝頼を甲斐武田氏中核の一門武将(例えば、武田典厩信繁など様な)としてではなく、どこまでも信州の名家・諏訪氏の武将として遇したのであり、その事が如実に物語っているのが、勝頼には武田氏の武将の武将に与えられる名前(通字)である『信』は無く、諏訪氏の通字である『頼』が当てられいることであります。また勝頼は武田氏の本貫地である甲斐国で武将として育てられた期間は短い、或いは皆無に等しく、元服して間もない1562年(勝頼16歳)には武田氏南信の最重要拠点であった伊那郡の高遠城の城主兼伊那郡の郡代に任命されており、甲斐を本拠地としている武田氏やその家臣団とは切り離されて、甲斐武田の人間としてではなく、信濃諏訪の人間として生き、武田氏本家に忠誠を尽くすことを、父であり武田氏当主である信玄から義務付けられたのであります。
 名門大企業・甲斐武田総本社の武将(社員)として省かれた気分が強い勝頼ですが、それでも勝頼は信玄の弟・武田信繁の長子・武田信豊と同格である武田一門衆として待遇され、更には甲斐武田本社の重要支社である信州高遠・諏訪会社の社長を若年ながらも任されたようなものであり、他の一般社員(他の戦国武将)から見れば羨望の地位であります。当初信玄は、勝頼を武田氏の次期後継者としてではく、武田を補佐する一門衆(現代でいう社外重役)として活躍してもらおうとしか考えておらず、勝頼本人も武田氏配下の一門衆・諏訪勝頼として生涯を送ることしか考えていなかったことでしょう。
 上記の武田信玄の思惑、そして諏訪勝頼の生涯を決定的に変えてしまう一大事件が発生します。それが『義信事件』(1565年)であります。


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 義信事件は、所謂、武田氏内部で勃発したお家騒動でありますが、駿河・遠江・三河の3ヶ国(静岡県全域と愛知県東部)の太守であり武田氏の盟友(武田義信の舅)でもあった今川義元が、有名な桶狭間の戦い(1560年)で敗死して以降、今川氏の勢力は急激に減退。そして1561年の第4回川中島合戦(八幡原の戦い)以降、宿願であった信濃経略に良き区切りを付けた武田信玄は、それまでの今川氏との同盟関係を破棄し、今川氏の本拠地・駿河の攻略を画策し始めます。この節操が無いように見える信玄の戦略転換に強く反対したのが、信玄の嫡男/次期武田氏当主である武田義信であります。
 義信は、亡き今川義元の娘婿であったために武田氏家中での親今川派の急先鋒であり、武田氏の正式後継者である義信に同心する有力な武田家臣団も多く、武田氏代々の普代家老、義信の傳役でもある飯富虎昌(武田赤備の創始者とされる)、信玄の奥近習、次いで義信にも仕えていた長坂昌国、義信の乳母の子である曽根虎盛、武田氏の姻戚関係にある穴山信嘉(のぶよし)など義信に近しい多くの家臣たちがおり、信玄が画策する駿河侵攻を推す信玄派と対立する武田氏内部分裂まで発展しました。
 この大規模な家中騒動に苦慮した武田信玄は、謀反の嫌疑によって嫡男・義信を廃嫡して、甲斐の東光寺に幽閉。前掲の義信派の武田普代衆であった飯富・長坂・曽根・穴山なども謀反加担の咎で切腹・処刑、その他の義信派の家臣団も追放処分とされています。また東光寺に幽閉された義信も1567年に失意の内に亡くなっています。享年30歳。
 武田義信の死に関しては、以前より病死・切腹の両説があり定かではありませんが、義信事件によって精強な武田軍の侍たちが死亡あるいは追放され武田軍の軍事力に悪影響を及ぼしただけではなく、大事な後継者である太郎義信まで失ってしまったことが武田氏にとって何よりもの痛恨事でありました。家臣団と同様に、義信たちを裁いた武田信玄自身も受けた衝撃は大きく、義信死去の同年に、信玄は武田家臣団に対して武田氏に忠誠を誓わせる起請文を信濃生島足島神社(長野県上田市)に奉納させたのは有名な話であります。
 因みに、武田信玄とその正室・三条の方との間で誕生した太郎義信を含める殆どの子供たちは非常に幸薄な人生を送っていることに同情を抱くことを禁じ得えません。嫡男であった太郎義信は先述のように不遇の内に死去し、次男の次郎信親(竜芳)は幼少期に大病を患い失明状態となり武田氏相続権を失い、三男・信之は夭折。長女の梅姫(後の黄梅院)は、有名な甲相駿三国同盟の証として相模国(神奈川県)の戦国大名・北条氏政の正室として嫁ぎ、北条氏嫡男・氏直(後北条氏最後の当主)らを産むも、父・信玄が今川氏(駿府)との同盟を破棄して駿河侵攻を企てたために北条氏との同盟も破れ、梅姫は氏政と離縁され甲斐に戻された後、27歳という若さで病死しています。
 武田信玄は、(織田信長とは違い)、甲斐という当時決して裕福ではない土地から戦国大名としてのキャリアをスタートさせたにも関わらず、信玄一代で甲斐・信濃・西上野(群馬県西部)・飛騨国(岐阜県飛騨地方)の一部、駿河まで支配権を拡げた素晴らしい器量は戦国期を彩る名将中の名将と謳われるのは疑うべくない事実でありますが、信玄の嫡男・太郎義信や長女・梅姫などは明らかに、父・信玄の政略において大きな犠牲を被ったのも、疑いない事実であります。信玄の子息の中で、信玄の政略によって苦しめられた人物がおります。そう今記事の主人公たる信玄四男の諏訪勝頼こと武田勝頼であります。

 義信事件によって、武田氏嫡男を失った武田信玄は、次期武田氏の後継者として自身の四男で、既に諏訪氏の当主であり信濃高遠城主となっていた諏訪勝頼を指名。勝頼、その嫡男・武田信勝とその近臣たちを武田氏の本拠地・甲斐(躑躅ヶ崎館)へ呼び寄せました。これが1571年、勝頼25歳の時であります。
 武田信玄にとっては、自身の子供とは言え、既に別家を立てている勝頼を後継者に立てることは、急遽の一策であり、突然に次期武田氏当主に指名された諏訪勝頼本人にとっては、只々困惑するところがあったことでしょう。何故ならば、(繰り返しますが)、勝頼は既に諏訪氏の人間となっている上、甲斐国内で育てられた期間は非常に短く、その分武田氏家臣団(甲州武士団)との馴染みが薄いのもあり、そして何よりも武田氏に滅ぼされた諏訪氏の娘(諏訪御料人)を母に持っている勝頼にとって、甲斐の武田家臣団、即ち武田氏一門衆や普代家臣たちとの間は、何とも微妙な距離感があったに違いありません。
 前後していましましたが、武田信玄の命令(後継者指名)により、諏訪勝頼改め武田勝頼は、義信事件勃発当時(1565年、勝頼が高遠城主時代)に信玄の外交戦略によって、尾張の織田信長の養女(龍勝院/信長の姪、遠山直廉の娘)を正室として娶り、武田・織田との間に盟約関係が締結されました。
 長年、甲斐武田・駿河今川・相模北条の3国間で締結されていた盟約が破れて四面楚歌状態の武田信玄にとって、新たな盟友として西の織田信長を選ぶしか策が無かった苦しい状況であり、その武田織田の盟約の証となったのが、勝頼と信長の姪の婚姻でした。信長の姪は1567年に勝頼との間に嫡男・武王丸、後の武田信勝を産んでいますが、夫・勝頼が正式に武田氏後継者となった1571年に病没し、これにより武田織田の盟約の証が消え、信玄は一方的に織田信長との友好関係を破棄する形で、決然と西上作戦、即ち徳川家康、その背後にいる信長に敵対行動を採るのであります。
 上記のように、1565年に武田勝頼(当時はまだ諏訪勝頼)は、父・武田信玄の外交戦略によって織田信長の養女と娶わせられ、武田・織田両勢力間の同盟の証とされたかと思えば、その僅か6年後に正室の信長養女が死去、その翌年1572年には信玄が信長との同盟関係を問答無用と言わんばかりに破って、当時東海・畿内へと勢力伸長著しい信長を敵に回したのであります。即ち勝頼は、最初、信玄の戦略によって織田信長との友好の証として利用された、かと思えば、信玄は強大になりつつある信長を敵に回すようになり、その最中の1573年に信玄は病没。その跡を継いだ勝頼は、かつて舅的関係であったはずの織田信長との敵対関係という、『どんでもない負の遺産』を先代から受け継いでしまったのであります。
 以前の定説では、「父・武田信玄=偉大なる戦国大名」、「その息子で後継者・武田勝頼=己の力を過信して織田信長との無謀な戦いを挑み、挙句の果てに武田を滅ぼした愚将」というものでしたが、その信長との無謀な戦いの原因をつくったのは、勝頼の偉大なる父とされる信玄なのであります。
 戦国大名・甲斐武田氏の研究を積極的にされていらっしゃる歴史学者の平山優先生(現在:山梨県立中央高等学校教諭、2016年NHK大河ドラマ「真田丸」の時代考証担当)が、NHKBSプレミアム『英雄たちの選択』(「武田勝頼・山城をめぐる最期の決断」の回)にゲストコメンテーターとしてご出演されていた際に、武田信玄と武田勝頼との関係性を以下のように述べられておられました。


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 『武田勝頼という人は、織田信長の養女を最初の奥さんにしているです。ですから、勝頼は信玄が信長と同盟するために、重要な役割を担わせた人物であったにも関わらず、何と父・信玄が信長をある意味で裏切る形で、一方的に同盟破棄して、戦闘状態に突入する。勝頼は、その跡をもろに受け継ぐことになってしまいました。』

 『信玄にとって、勝頼の運命は翻弄されたまま家を継がざるを得なかった。しかも「諏訪勝頼という宿命」を背負ったままです。』

 (以上、平山優先生の番組内コメントより)

 先述のように当時の戦国大名で、武田信玄のみが、自家勢力拡大のために自分の子息や息女を政略外交の手駒に使ったわけではないのですが、信玄の場合は、衰退してゆく駿河今川氏を見限り攻略した「駿河侵攻」や、平山先生が仰られた信長との同盟を破棄して「西上作戦」などの例を見てもわかるように、最初は互いに友好関係を結びながら、後々にその関係が不要になると、信玄の方から一方的に友好関係を切り捨て、侵攻してくるという、とても義理堅いとは言い難い政略が目立っています。思い返せば、武田勝頼の実母・諏訪御料人の実家・諏訪氏に対しても、武田・諏訪の友好関係を信玄の方から破棄して、諏訪領を攻略。諏訪氏を滅ぼしています。
 
 武田信玄からしてみれば、臨機応変に政略方針(同盟・その破棄・侵略の繰り返し)を変更することで甲斐一国から戦国期を代表する群雄に成り上がれたのだ、と言いたいでしょう。それは事実なのですが、それによって織田信長と敵対関係になり、遂には信長によって武田氏は滅ぼされてしまう破目になってしまうのです。
 織田信長という人物は、自分の家臣団の裏切りや造反を絶対に許さない酷な性格であったことは有名でありますが、盟友関係からの裏切りも決して容赦しない人物でもあったことも、また有名であります。信長の義弟・浅井長政の末路などが好例であります。よって、かつての信長の同盟者であった武田氏(厳密に言えば信玄)も、信長を裏切っていますので、信長の武田に対する憎悪は並大抵なものではなかったと思います。その相手をしなければいけなかった武田勝頼は、やはり悲劇的であります。

 武田勝頼の悲劇は織田信長を相手しなければならないのみが、負の遺産ではありません。勝頼を苦しめられたものが、まだあります。それが父・武田信玄の遺言でした。
周知の通り、1573年、既に最晩年期の武田信玄は、室町幕府15代将軍・足利義昭からの要請(織田信長打倒)に応じる形で、2万5千の大軍を率いて西上作戦を敢行。途上の遠江三方原(静岡県浜松市)にて、信長の盟友・徳川家康の軍勢を鎧袖一触にて撃破し、更に西を目指しましたが、三河野田城攻めの折に発病(肺結核説や胃癌説あり)。甲斐に引き上げる途上の信濃駒場(長野県下伊那郡阿智村)にて53歳の生涯を閉じました。
 戦国期最強と評される傑物・武田信玄も病には勝てず、宿敵・織田信長を倒すこと叶わず死んでゆく悲劇的な場面として物語上で展開されるのが定番であり、また俗説における信玄の遺言では、「儂の死は3年間隠せ」「我が身は諏訪湖に沈めよ」「明日は武田の旗を近江瀬田にたてよ」等々がありますが、実際の信玄の遺言は、自分亡き後に武田氏を率いてゆく武田勝頼にとって、とても切なく辛い内容でした。それが『甲陽軍鑑』に書かれてあるのですが、内容が以下の通りです。

 ⓵『跡の儀は、四郎のむすこ信勝十六歳時、家督なり。其間は「陣代」を四郎勝頼と申付候』
 (『武田の家督は、武田勝頼の息子・信勝が16歳になったおり継がしめよ。その間は、勝頼に「陣代」を申し付ける』)

 また軍旗「孫子(風林火山)の旗」と並んで、名将・武田信玄の象徴である「諏訪法性の兜」の譲渡(遺産相続先)についても信玄は遺言しています。
 ⓶『諏訪法性の甲は勝頼着候て其後是を信勝に譲り候へ』
(『諏訪法性の兜は、陣代の間の勝頼が身に着け、信勝が家督相続の折は、それを信勝に譲渡せよ』)


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 諏訪法性の兜を持つものが武田氏当主の証の1つとされていることが上記における信玄の遺言でわかるのですが、問題は⓵で挙げさせて頂いた『陣代』についてです。『陣代』、別名『軍代』とも言いますが、その意味はgoo辞書に拠ると以下の通りであります。

 『室町時代以後、主君の代理として戦陣に赴いた役。また、主君が幼少のとき、一族または老臣などで軍務や政務を統轄した者。軍代。』

 (goo辞書より URL:https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E9%99%A3%E4%BB%A3/)

 野球界で言ってしまうと、先発ピッチャー(ここでは武田信玄)と抑え投手(武田信勝)の間を受け持つ『中継ぎ投手=陣代』として武田勝頼は登板させらたという形であります。
 偉大な父・武田信玄が死んで、武田勝頼が名実ともに名門・武田氏の当主になれるかと思えば、信玄から『お前は「仮初めの当主」だよ。お前の息子の信勝が元服したら、お前は当主の座から降りろよ』と武田氏一同の中で、公式に宣告されたのであります。ただでさえ、武田氏に滅ぼされた敵方・諏訪氏の血を引き、幼少の頃より諏訪氏の当主(武田氏家臣の一員)として運命付けられ、代々の武田氏一門衆や重臣層から冷めた目で見られている微妙な立場の武田勝頼である上に、今わの際の信玄から「一時的な当主」とされてしまった勝頼にとって、信玄麾下の有能で誇り高い武田氏一門衆や普代衆を統御するための求心力を大いに削いでしまう破目になったのではないでしょうか。
 武田信玄が、次の正式な武田氏当主を自分の息子である武田勝頼ではなく、その息子(つまり信玄の孫)である当時未だ幼少である武田信勝(1573年で6歳)に指名し、勝頼を陣代=中継ぎ当主とする遺言をした理由でありますが、この事についても、前掲の歴史学者の平山優先生が、『英雄たちの選択』の番組内でも仰ってますので、以下に紹介させて頂きます。

 『信玄の息子とは言え、諏訪家を継いでいる男子が武田氏の当主になる。ということについては、武田氏は名門意識が強いので、ものすごい抵抗感が普代・一門衆にあったのではないと思います。信玄はそれを考え十分承知した上で、(勝頼を)その立場(筆者注:陣代の身分)から早く自由にしてやるために、生まれながらの武田家嫡男・信勝に家督を渡すようにしました。この配慮は勝頼のために信玄が考えたこと思うです。』

 自分の息子とは言え、武田氏配下の諏訪氏当主・武田勝頼から急な形で武田氏宗家の当主になる勝頼の肩身の狭さや重責を慮って武田信玄は親心を以って、『勝頼を陣代とする』と遺言したと平山先生は仰っておられます。しかしながら、と平山先生は言葉を続けられます。

 『ここにですね、その後の運命が暗示されているような気が私はしています。』

(以上、『英雄たちの選択』番組内 平山優先生のコメントより)

平山先生が仰る武田勝頼の運命は周知の通りであります。武田信玄の親心から発したであろう『上記の遺言=武田勝頼を陣代する』という信玄の目論見は失敗(つまり武田氏滅亡)してしまい、1582年織田信長の甲州征伐によって勝頼は、信玄亡き後の一門筆頭格であった「武田信廉(信玄の実弟、逍遙軒の号で有名)」や「穴山信君(梅雪で有名)」、有力普代であった「小山田信茂」などの武田氏中核、つまり甲州武士団の逃亡・裏切りよってあっけなく滅んでしまいます。その大きな原因の1つが、武田氏全家臣から崇拝されていた先代・信玄から直に『仮初めの当主』と宣言されてしまった勝頼に対して、武田家臣団が強い忠誠心を持つことが難しかったことにあります。結果的に信玄の遺言が完全に裏目に出てしまったのです
 東京大学史料編纂所・教授で、多くのテレビ番組にもご出演されておられるお馴染みの本郷和人先生の著作の1つに『真説 戦国武将の素顔』(宝島社新書)があり、その文中で、「有能な家臣は育てられたのに後継者は育てられなかった」を主題に武田信玄の遺言内容についての評価も書かれてありますので、その一部を以下に挙げさせて頂きます。

 『後継者の勝頼に対し、「これは仮初めの後継者だ」と遺言したのが本当だとしたら、それでは家来たちがついてくるわけがない。』
 『信玄がこのとき、遺言として残さなければいけなかったのは、勝頼を家来が尊敬できるようにすることでしょう。勝頼に少しでも箔をつける気遣いが必要だったのではないかということです。』

 僭越ながら筆者も上記の本郷先生の指摘はご尤もだと強く同意しております。この遥か後年、豊臣秀吉の名参謀として活躍した高名な黒田如水(官兵衛)が、死ぬ間際に自分が育成して君臣水魚の交わりの関係を持つと言われた普代家臣(俗に言う黒田二十四騎)たちを枕元に呼び集めて、彼らを散々に口汚く罵倒し、敢えて憎まれ役となり、自分を敬慕している家臣たちの心が、如水の息子で既に黒田氏当主(福岡藩主)となっていた黒田長政に向くように仕向けた逸話は有名であります。
 武田信玄と黒田如水、両人物共に独自に有能な家臣団を育て上げ、彼らから絶大な信頼を得ていた名将という共通点があるのですが、臨終間際で、次期後継者の事を考慮して採った行動には開きが出ています。先述における如水の家臣罵倒策についての真意は定かではありませんが、臨終間際の信玄にも(如水のように)、家臣団から憎まれ役を敢えて買って出るような心意気があって欲しかったなと筆者は思ってしまいます。最も、遥か後年、明治期の偉人にして俳句の中興の祖と謳われる正岡子規は、如水が死ぬ間際に家臣団を罵ったのは、「病人のただの我儘から出た悪口だ」と、著作「病状六尺」で酷評している説もあります。これは余談ですが。
 余談が長くなってしまいましたが、前掲の本郷先生の文はまだ続きます。


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 『武田の家来にしてみれば、信玄が亡くなる直前まで勝頼も同僚だったわけです。諏訪勝頼は武田の家来として、これから武田家のなかの武将のひとりとして頑張っていこう、という状態でした。』
 『だから、山県昌景にしても、馬場美濃守にしても、ついこの前まで同僚だった勝頼が、「あっ、俺今日から大将ね」と言ってくるわけで、面白くはないですよね。だから信玄には自分の息子を箔付けするような配慮が欲しかった。信玄から見ると、他の武将たちから勝頼が舐められるっていうところがあったんじゃないかと思います。』

(以上、「有能な家臣は育てたが後継者を育てられなかった」 文中より)

 本郷先生は、武田信玄を実戦で非常に強く領土を着実に拡大し、馬場や山県など有能な家臣を育てた名将と評しつつも、上記のように後継者(武田勝頼)の育成に失敗し、馬場たち普代家臣たちが勝頼に不満や不安を持たせ、次代で武田氏を消滅させてしまったという後継者選びの点については『武田信玄はイマイチ』と厳しい評価をしておられ、『結局、義信を殺さざる得なかった。そのことがあまりにもデカかったかもしれません』と結んでおられます。
 武田信玄が武田氏にとって大事な嫡男・太郎義信を義信事件(1565年)で失って、それまで諏訪氏の当主/信濃伊那郡代であった勝頼を、急遽武田氏の次期後継者として武田の本拠地・甲斐に呼び寄せたのが、1571年。
 この当時、中央の畿内では織田信長の台頭が著しい頃であり、信長は足利将軍家、石山本願寺(一向一揆勢力)、三好氏、浅井氏、朝倉氏といった畿内・北陸勢力と戦っていた所謂「第一次信長包囲網」の最中でした。その信長包囲網の一環として、東国の覇者・武田信玄は足利将軍家方に加勢、織田信長との決戦に没頭してゆくことになり、その2年後の1573年に信玄は信長との決戦前に病没してしまいます。
 繰り返しますが、武田信玄が、武田勝頼を(陣代とは言え)次期後継者として甲斐に呼び寄せたのが1571年、そして信玄は勝頼を名門・武田の大将としての帝王学を授けることや勝頼と武田の普代家臣団の絆を深める方策を採る暇もなく、中央の織田信長との戦い準備や実戦に没頭し、その2年後に信玄は53歳に病没してしまってます。
 筆者はこの1571年~1573年の2年間という時間を武田信玄が、それまで武田と友好関係であったはずの織田信長と一方的に縁を切って、戦いに没頭したというのは、肯けないと思います。信長が当時、浅井・朝倉・本願寺勢力などの包囲作戦で窮地に陥っているのを観て、浅井たちに味方をして大勢力の信長を叩くのは今!と思い、武田信玄が、武田の大軍を率いて西上作戦を行うことの気持ちや戦略が分からぬではないですが、ここは信玄が好んで掲げた「孫子の旗」の一説「不動如山(動かざること山の如し」にあるがように、信玄は信長と敵対関係にならず、中立を決め込み、新しく武田の後継者として選んだ武田勝頼を教育、勝頼と武田一門や普代家臣との関係融和に努める内政・人事に力を、できる限り注ぐべきではなかったのか?と筆者は僭越ながら思っています。
 また武田信玄が、織田信長との敵対関係に突入しておきながら、その大仕事を片付けることなく病没してしまい、その後処理(大きな負の遺産)を武田勝頼に廻って来てしまったことが、勝頼の大きな不幸の1つであることは間違いありません。
 よくよく考えたみると、武田勝頼という人物は、父・武田信玄の戦略、信玄がつくった負の遺産(信長との敵対)によって生涯を送り、この世を去っていた、ということがわかります。

⓵武田氏のかつての敵対勢力・諏訪氏の血を受け継ぐ男児として誕生。
⓶武田氏宗家の人間(名前に「信」が与えられていない)としてでなく、諏訪氏の人間として育てられた。
⓷武田配下の諏訪氏当主として生涯を送るはずであったのに、武田氏内紛(義信事件)によって嫡男・太郎義信が亡くなったことにより、急遽の形で、名門・武田氏の後継者と指名されたこと。
⓸義信事件により、それまで武田の盟友関係であった駿河今川・相模北条と敵対関係になり、その対策として織田信長の養女を正室に迎え、武田・織田両氏の友好関係の役割を父・信玄によって担わせられたこと。
⓹武田の後継者として迎えられたが、父から当主としての教育、武田普代家臣団との修好をする暇もなく、武田氏一同、信長との戦いに向かっていったこと。
⓺父・信玄が信長と敵対関係のまま死去。味方の裏切りに病的に厳しい信長との敵対関係、武田普代家臣との薄い主従関係などの大きな負の遺産を継承する形で武田氏の当主となったばかりか、信玄の遺言で『勝頼は陣代(中継ぎ当主)』と宣言されてしまったこと。


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 筆者が大雑把に挙げてみただけでも、武田勝頼が、父・武田信玄の戦略によって背負う破目になった「血の不幸」、そして「負の遺産」というのが出てくるのであります。
 それら多くのハンディを背負いつつも、勝頼は長篠設楽原合戦(1575年)での大敗戦にも萎えることなく、7年間、戦国大名・武田氏の命脈を保つばかりか、積極的に軍事・外交を展開することによって、一時的ながらも父・武田信玄が一代で築き上げた版図を更に越える版図を拡げた勝頼の手腕は見事なものであることは確かであります。しかし、陣代当主であるにも関わらず、その勝頼の優秀さが却って自身の寿命と武田の命脈を縮めた結果となってしまいました。
 積極的な軍事行動(外征策)を採り続け、只でさえ織田信長より遥かに劣る経済力/人口比率である甲信地方に拠る武田氏の家臣団や麾下の国人衆は、軍役で経済的負担が大きくなり、次第に武田勝頼から心が離れてゆき、また強大な織田軍の甲信侵攻に備えて、1582年に武田氏の本拠地であった躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)から移転して、新しく堅城・新府城(同県韮崎市)を築き、武田氏の新本拠地として定めましたが、この新府城築城の賦役を疲弊している武田配下の家臣団(国人衆)たちに命じ、更なる負担を強いたために、遂に武田氏有力一門であった木曽義昌、穴山信君が相次いで武田勝頼から離反。後はなし崩し的に武田氏は分裂し、最期は、甲斐郡内の有力国人衆であった小山田信茂にも離反されて勝頼は天目山にて自害。天下を震撼させた名門戦国大名・武田氏は滅亡してしまいました。

 ⓵『(武田勝頼のように)なまじ優れている人は、却って無理をし過ぎて、やり過ぎて滅ぶこともあるんですよ。』

 ⓶『事業継承というのは、後を継いだ人が優秀だったら、上手くいくとも限らないんです。どんでもない無能な人では駄目ですが、平凡な後継者が上手に事業継承ができる場合が多いです。優秀な後継者は優秀さうえに、ビジネスモデル自体を変えて、そして失敗してゆく、そういう現代企業は多いですね。』

 以上は、前掲のNHKBSプレミアム『英雄たちの選択』番組内で、進行役の磯田道史先生(⓵)、ゲストコメンテーターの経済学者の飯田泰之先生(⓶)が其々が思っておられる武田勝頼についての人物像を仰ったことであります。要約させて頂くと、武田勝頼は『優秀過ぎた上に、無理をし過ぎて、周囲の反感を買い斃れてしまった』という事になりますが、勝頼が無理をせざる得ない状況に追い込んだのは、「自身の血筋」、そして「父・武田信玄の戦略や遺言」(総括して「信玄からの負の遺産」)でありました。そういう大きなハンディを背負いつつ、一時的ながらも織田信長や徳川家康相手に善戦した武田勝頼に対して同情することを筆者は禁じ得ないのであります。


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 因みに、武田信玄・武田勝頼父子の失敗例をよく学び、事業継承を上手くやり遂げた最たる例が、信玄を畏敬した天下人・徳川家康と徳川秀忠父子であります。家康は生前から秀忠を次期天下人(2代将軍)として定め、約10年間という長い時間を掛けて家康は大御所として、新将軍・秀忠の教育やその治世を監督し、徳川将軍家(江戸幕府)の天下を確固たるものにしました。そして、徳川家康や武田勝頼のより凡庸な徳川秀忠は、無理をせずに徳川統治を上手く継承してゆき、その後、世界史上稀に見る平和な徳川政権が続いてゆくことは周知の通りであります。
 そう思うと、大仰ではありますが、武田信玄・勝頼父子の継承モデルの失敗例は、その後の250年以上にも及ぶ平和な徳川政権治世に、「反面教師」として大きな役割を果たした、と言えるのではないでしょうか?

(寄稿)鶏肋太郎

武田勝頼「天の時」を得られず敗亡した名将
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