武田勝頼「天の時」を得られず敗亡した名将

武田勝頼

 以前の記事で、拙者の与太話的モノで「日本の馬」について掲載させて頂いておりますが、その執筆途中で日本戦国期で「騎馬隊」で有名な甲斐武田氏=武田信玄について思い出したことがございました。尤も筆者は数百、あるいは千騎以上の騎馬武者が、時代劇などのように整然と部隊を組んで敵陣に突撃してゆくという騎馬隊実在説には否定的な考えであり、(以前の記事と重複しますが)、その理由として戦国期の軍馬は、未去勢の牡馬しか使われておらず、騎馬武者のみで隊列を組むように互いに密接し合うと軍馬同士が噛みつき合うなどのケンカしてしまうのが関の山であります。
 時代劇や大河ドラマのように騎馬武者の集団となっているのは、近代軍隊でいうところの「騎兵」であり、日本では明治期になって漸く騎馬兵力が集団で軍事行動を採る「騎兵隊」が登場するようになったのです。即ち司馬遼太郎先生の大著『坂の上の雲』の主人公の1人である騎兵専門の陸軍軍人・秋山好古(最終階級:陸軍大将)が丁度活躍した時期であります。


スポンサーリンク



 上記のように日本の戦国期で、名将・武田信玄、その次代である武田勝頼が率いた武田騎馬隊が存在したということについて、拙者は否定的なのですが、騎馬武者についても否定しているのではありません。信玄および勝頼の本拠地である甲信地方(特に信濃国)は、古代より大和朝廷(京都)に献納するための馬を飼育するための官営牧場が多く点在しており、そういう地理的環境に恵まれた信玄たちが率いる武田武士団は、東海圏の織田信長の尾張兵と比べると、寧ろ容易に軍馬を入手でき、馬の操練に馴れていたと思われます。「武田武士団=騎馬武者が強い+騎馬熟練者が多い」という印象が諸大名で広まり、それが後世、天下無敵「武田騎馬隊」という誇大なイメージとして伝わったのでしょう。
 騎馬隊の有無は関わらず、信玄率いる「甲斐武田軍(甲州勢)」は、上杉謙信の「越後上杉軍(越後勢)」と並んで最強軍団の双璧であったと当時でも認識されていたことはあまりにも有名であり、皆様もよくご存知だと思います。
 特に武田軍は、馬場信春(信房とも、不死身の鬼美濃)・山県昌景(旧名:飯富三郎兵衛)・高坂昌信(香坂虎綱とも、逃げの弾正)、内藤昌豊(昌秀とも)といった後世に「武田四名臣」と謳われる智勇兼備の将を含め、信玄が育成した優秀な武士団(総称:武田二十四将)は天下に武名を轟かせており、これらと対峙し苦境に立たされた後年の天下人・織田信長、徳川家康らを震撼させるほどでありました。
 
 織田信長・徳川家康の両雄を震撼させた程の甲斐武田の将帥が信玄であることは無論ですが、信玄は両雄よりも一回り以上も年長で、彼らと本格的に対峙した時(1570年前半、元亀)は既に最晩年であり、直ぐに病没(1573年)してしまったので、織田・徳川という伸長著しい勢力と対峙することになったのが、信玄の四男であった『武田勝頼(1546~1582、旧名:諏訪勝頼)』であります。
 
 筆者の好きな歴史番組の1つに歴史家・磯田道史先生がご司会なさっている『英雄たちの選択』(NHK-BSP)で、「シリーズ戦国合戦の謎⓵ 長篠の戦い 戦国最強・武田軍はなぜ敗れたか?」(2014年06月05日放送)でゲスト出演されていた脳科学者の中野信子先生は武田勝頼についての印象を以下のように仰っておられました。

 『武田勝頼という人は、本来武田家の家督を継ぐべき人ではなかったのに、代打のような形で出てきて、その割にはすごく善戦したと思うんですね。だけれども信玄時代に遺った「負の遺産」というものを、そのまま受け継いでしまって、一言で言うと、凄く可哀そうな人だなと思います。』 

 (以上、『英雄たちの選択』番組内より)


スポンサーリンク



 中野信子先生が上記のように仰られたことは、正に正鵠を射たものであり筆者も強く賛成する次第であります。武田勝頼ほど「様々な不運」に見舞われて、悲劇的な最期を遂げた武将も戦国期では稀有ではないでしょうか。勝頼の「様々な不運」についてのキーワードとなるのが3つあると筆者は思っております。「時代の流れ」「経済的不利」、そして「血筋」の3つです。これが中野先生が仰られた武田勝頼が継いでしまった『信玄時代の負の遺産』と言うべきものだと思います。僭越にも上記の3つを大仰に言い換えてしまえば「天の時(時代)」「地の利(経済)」「人の和(血筋)」、即ち『天地人』であります。
 余談ですが、天地人と言えば、2009年(平成21)のNHK大河ドラマのタイトル、筆者の故郷である富山県の北日本新聞のコラム名と同じであることが思いつくのですが、天地人は、中国儒教の大家である『孟子』(「公孫丑章句上」内)であり、『天時不如地利。地利不如人和』=『天の時は地の利に如かず 地の利は人の和に如かず』が語源となっております。
 
 与太話が過ぎてしまいましたが、武田勝頼は名将でありながらも上記の「天地人」に恵まれることもなく、信玄時代の負の遺産を背負い続けて滅んでいったのは確かであります。そこで今回の記事を含めて、天地人の様々な不運が重なり敗亡した名将・武田勝頼について筆者なりに記述させて頂きたいと思います。
 今回は「天の時/時代の流れ」についての不幸でありますが、武田勝頼が誕生したのが1545年(天文15)。亡父・武田信玄(享年53歳)から名門武田氏を事実上継いだのが1573年(元亀4)で、勝頼28歳の時でありました。
勝頼が武田氏の仮初めの当主(陣代、前掲の中野先生の言うところの「代打の当主」)になった当時、武田の最大脅威となっていた壮年期の織田信長(39歳)は、本拠地である尾張国(愛知県西部)・美濃国(岐阜県南部)・伊勢国(三重県)の東海圏、南近江(滋賀県南部)・大和国(奈良県)など経済的に恵まれた畿内の数ヶ国を支配下に置いている上、同年には信長包囲網の中心核であった足利将軍家、北近江の浅井氏、越前国(福井県)の朝倉氏をも討滅、それらの領国をも併呑し、織田信長の勢力圏は、石高で換算すると300万石を越え、天下一の大勢力となっています。
 武田勝頼は、更に織田信長の盟友である三河国(愛知県東部)と遠江国(静岡県東部)、石高約58万石を有する徳川家康とも敵対関係にあり、勝頼は徳川、そして天下第一の勢力である織田と直接対決を余儀なくされるのであります。即ち勝頼は、先代の信玄よりも、遥かに不利な情勢(浅井・朝倉など友軍の滅亡と織田の大勢力確立期)で、武田氏を率いてゆくことを余儀なくされたのであります。この時点で武田勝頼は「天の時」に恵まれていないと言えます。
 父・武田信玄が戦国大名として活躍した時代(1541年~1570年頃)は、全国の諸大名および国人領主たちは、いずれも天下の覇権を把握するほどの大勢力となっていない群雄割拠期であり、信玄はその時期に甲斐を治め、大小の国人領主層の群雄割拠著しい信濃国(長野県)の経略に執念を燃やして、甲斐武田を戦国期に代表する戦国大名へと着実に成長させていったのであります。即ちこの時の信玄および武田氏には、領国拡大・勢力内の地固めが出来るほどの時間的余裕があったのであります。
 対して1570年代、即ち元亀天正期に戦国大名として立たなければならなかった武田勝頼には、父・信玄のような時間的余裕は無く、先述のように、この時既に東海畿内には織田信長が一大勢力を形成している上、信長およびその盟友である徳川家康と敵対している戦況に直面しているのです。
 武田勝頼=愚将のイメージを後世に植え付けることになってしまった1575年(天正3年)、織田徳川連合軍と戦い敗北した有名な『長篠設楽原の戦い』があります。
 馬場信春・山県昌景など重臣たちの制止を聞かず、己の力と武田の強さを過信して無理な合戦を仕掛けた総大将・武田勝頼によって大敗北を喫した武田軍は、馬場信春や山県昌景、原昌胤、真田信綱真田昌輝などの武田信玄以来の智勇兼備の名将が相次いで討死したことにより、戦国最強と謳われた続けた武田氏は衰退の一途を辿り、これが8年後の武田氏の滅亡の起因となった、というのが以前までの通説になっており、これが父・信玄よりもスケールが小さい遥かに劣る愚将・勝頼と蔑まれる大きな原因となっていました。
 確かに長篠設楽原の敗戦によって武田氏は打撃を受けていますが、その直後、武田勝頼は素早く対策を講じ、戦死した武士の遺族(子孫、出家した兄弟)などを登用・抜擢、諸役免除することにより、勝頼独自の軍団を形成することに成功。長篠敗戦から僅か3ヶ月後には、1万~2万の大軍を動員できるほど武田軍の軍事力を回復させたことが、「当代記」「甲陽軍鑑」に書かれており、勝頼の手腕を讃えています。長篠設楽原の敗戦直後にも関わらず、武田軍を神速の如く整えた勝頼の優れた内政・軍事能力には、敵方である徳川家康も驚き『勝頼恐るべし大将(原文:勝頼に武道を感ずる所なり)』と言ったそうです。


スポンサーリンク



 長篠の敗戦で、先代・武田信玄からの多くの名臣(馬場・山県・原など)を失った武田勝頼でしたが、別の観点(勝頼にとって利点)からすると、彼にとって父・信玄以来の大旧臣(司馬遼太郎先生の言を拝借すると『勝頼からしてみると小姑のような小うるさい家老たち』)を、織田信長が鉄砲部隊で一掃(クリアランス)してくれたのであります。勝頼はこれ幸いと言わんばかりに、勝頼は己の手によって人材を登用抜擢し、勝頼オリジナル武田軍団を形成していったのであります
 実は、名将である武田信玄(武田晴信)も勝頼と同様であり、長篠設楽原時の勝頼とほぼ同年齢であった当時27歳の信玄が北信濃の強豪・村上義清との決戦『上田原の戦い』(1548年/天文17年)で大敗北を喫し、代々武田氏の宿老であった板垣信方(駿河守)・甘利虎泰(備前守)・初鹿野伝右衛門らが戦死しています。
 特に板垣・甘利は、信玄の父・武田信虎以来の武田氏の双璧を成す猛将である上、武田家臣団のトップである「両職」に就いていた筆頭宿老というべき存在であり、板垣は信玄(晴信)の傳役であったと言われています。
 青年期の武田信玄にとって、上記の板垣信方・甘利虎泰は、父祖から武田氏に奉公する信頼おける普代衆で、強豪・甲斐武田軍の中核を成す重要な存在であり、両将を上田原合戦で失ったことは痛手あったことは間違いないのですが、また反面に彼らの尽力よって武田氏当主に擁立された経緯を持つ信玄にとって板垣たちは「自分より年長であり、常日頃気遣いを要する面倒な面々」という二律背反を持つ存在であったのです。
 作家の永井路子先生は、小説『山霧』(NHK大河ドラマ「毛利元就」の原作)の中で、『戦国大名にとって普代衆とは厄介な存在であった』という意味合いの文章があったことを筆者は記憶しておりますが、正しく青年期の武田信玄にとって板垣信方たち普代衆は頼りになる反面、扱いに苦労する連中であったのです。(この事については信玄以外の戦国大名・上杉謙信や織田信長も苦労している点ではありますが)
 事実、若年信玄の傳役にして、信玄の武田氏家督相続時(武田信虎追放)に尽力した筆頭宿老であった板垣信方は、信濃諏訪郡代の要職を歴任し、武田軍信濃経略の旗頭となって活躍していますが、晩年には諸事増長気味となり、当主である信玄からその増長ぶり詩歌を以て婉曲に諫められていることありました。また信方自身が討死する上田原合戦では、武田軍先鋒として村上義清軍を初戦で撃破した信方は合戦場、しかも合戦の真っ只中で首実検を行い、その隙を突いて反撃してきた村上軍に信方は討ち取られています。この顛末は完全に板垣信方の油断(失策)が招いた結果であります。
 小説や時代劇など創作世界では、(武田勝頼の母方実家である)諏訪氏、笠原氏(志賀城)攻略などの戦勝によって慢心し始めた青年大名・武田信玄が、信濃一の強豪・村上義清に無謀にも挑んだ上田原合戦で、板垣信方・甘利虎泰の両名が信玄の慢心/無謀さを諫めるために、自ら進んで死んでいった展開が主流でありますが、実は全くの逆であり、信方(武田家臣団)の方が小さな勝利に驕って暴走し始め、村上軍に逆襲されて負けたのが上田原合戦であります。


スポンサーリンク



 板垣信方は、信玄の為なら潔く死地に赴くという忠義に厚く器量人格に優れた名将として描かれていますが、残念ながら実際の信方は、戦上手ながらも性格は我々と同じく一長一短を持つごく普通であり、当主の信玄も普代であり傲岸な信方の扱いには気苦労があったと思います。
 上田原合戦での敗戦によって、確かに武田信玄は父祖伝来の重臣たちを失うという痛手を受けてしまいましたが、その後の信玄は「禍を転じて」といったように、自身に近しい家臣たちを抜擢し、武田軍の主力として起用してゆきました。その中から頭角を現したのが、信玄の近習であった春日源助こと高坂昌信、教来石景政こと馬場信春、工藤祐長こと内藤昌秀、飯富三郎兵衛こと山県昌景、といった後に無敵・武田軍を代表することになる「武田四天王」を中心とした多くの名将たちであります。
 名将・武田信玄が、「孫子(風林火山)の旗」と自身が見出し手塩に掛けて育てた馬場たち気鋭たちを率い、天下に武田軍団の武名を轟かせたことは周知の通りでございますが、先述のように、1540~1570年代の群雄割拠期に活動していた信玄には上田原での敗戦後に武田軍を再編できるほどの『時間的余裕』があったのであります。もし信玄が、織田信長の独り舞台になっていた1570年代後半に、上田原合戦のような大敗北を喫して、父祖以来の重臣を失い武田軍に大打撃を与えてしまっていたなら、自軍を天下一の精鋭にするおろか、軍の立て直しも出来る時間的余裕が無かったでしょう。
 1570年代前半に父・武田信玄から武田氏の家督を相続することになってしまった武田勝頼は、1575年に長篠設楽原で敗北、父・信玄以来の重臣たちを失い、直ちに自分独自の軍団の再編に取り組み、僅か長篠敗戦後の3ヶ月後に1万以上の大軍を出陣できるほど着実に成果を挙げていたのですが、時既に遅しと言うべきであり、この時期(1575年~1580年)は既に、中央では武田氏の宿敵・織田信長が、父・信玄時代の友軍であった近江の浅井・越前の朝倉、伊勢長島一向一揆などを滅ぼし、天下の覇権を把握するほどの大勢力となっており、この『時の流れ(織田信長の時代)』には勝頼ほどの人物でも逆らうことは出来ず、1582年に織田・徳川・後北条に本拠地である甲斐国に侵略され、勝頼は嫡男・武田信勝、継室である北条夫人(陽林院/桂林院、当時の後北条氏の当主・北条氏政の妹)、僅かな近臣たちと共に天目山にて自害。名門戦国大名・甲斐武田氏は滅亡しました。
 武田勝頼は、長篠設楽原の戦いで大敗戦が主因で、武田氏を滅亡させてしまった父・武田信玄に遥かに劣る「愚将」というイメージが強くなってしまいがちですが、勝頼も父・信玄と同様に大敗戦で萎えるどころか、忽ち軍勢を整えて、堅城の高天神城などを攻略に成功するなど積極的な軍事行動を採り、(一時的ながらも)信玄期以上の版図を築き上げたほどの器量を勝頼は有していたのであります。こういう結果から観ると、勝頼も決して名将として名高い父・信玄と比べて何ら遜色ない優れた器量の持ち主であったことが判るのです。ただ重複しますが、武田勝頼には『天の時(時間的余裕)』が無く、勝頼流武田氏が完成する前に織田信長に滅ぼされてしまったのであります。


スポンサーリンク



 もし勝頼にも、(武田信玄と同様に)、長篠設楽原の戦いから20年ほどの時間的余裕があったら、完全に武田氏内部統制を把握し、武田信玄に匹敵するほどの名将としてのイメージが後世に確立されていたと思います。
 勝頼の悲劇は「天の時」を得られなかったことばかりではありません。(父・信玄と同様ですが)「地の利(経済力)」に恵まれなかったことも当然ながら、1582年に勝頼がいよいよ織田信長の大軍に攻め込まれて滅亡する土壇場で、勝頼に従っていた武田軍(甲斐武士団)は悉く勝頼から離反してゆき、最期は武田氏の普代家老であった小山田信茂(甲斐郡内地方の有力国人領主)に裏切られて勝頼は僅かな家臣たちと天目山に自害する寂しい生涯を終える羽目になっています。即ち勝頼は、代々武田氏の主要家臣団である甲斐国の人々からも総スカンを受けてしまうという「人の和」に関しても不運であったのであります。
 何故、武田勝頼には「人の和」にも恵まれなかったのか?それは勝頼が生来背負った『血筋の不幸』、そして父・武田信玄の『遺言』にあったのです。この詳細は、次回の記事で紹介させて頂きたいと思います。

(寄稿)鶏肋太郎

血筋の不幸と父・武田信玄の遺言に苦しんだ武田勝頼
武田家滅亡への序章 長篠の戦い後の武田勝頼の動向をみる
鶏肋太郎先生による他の情報

共通カウンター

フィードバックする
スポンサーリンク
スポンサーリンク

関連記事一覧

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

コメントするためには、 ログイン してください。