武田元繁 今項羽と呼ばれた猛将

真田信繁

戦国武将の中には智謀や武勇が飛びぬけていた者は古代中国の偉人の名前を宛がわれていました。
例えを挙げると豊臣秀吉に仕えた竹中半兵衛は三国時代に活躍した諸葛孔明にちなんで今孔明。
同じく秀吉に仕えた黒田官兵衛は劉邦に仕えた軍師、張良にちなんで今張良と呼ばれていました。

そこで、今回は劉邦と覇を競った項羽にちなんで「今項羽」と呼ばれていたのにマイナーな武田元繁(たけだもとしげ)を紹介したいと思います。

項羽とは

今項羽の言葉の語源となっている項羽という人物は秦の時代にいた楚の武将です。
項羽は反秦軍をまとめあげ、秦を滅亡させたことにより自らを「西楚の覇王」と称していました。
その後、天下の覇権を劉邦と競い合っていき、当初は武勇が格上の項羽が優勢でした。
しかし、相次ぐ離反により劣勢となり、31歳で人生の幕を閉じました。

元繁の生い立ち

元繁の生まれた年は定かではありませんが、安芸武田家6代目当主の武田元綱を父に持っていることはわかっています。
そして、元繁が生まれている時に明応の政変が起きます。
明応の政変とは明応2年(1493)に管領の細川政元が室町幕府10代将軍の足利義材(あしかがよしき)を追放し新将軍として足利義澄(あしかがよしずみ)を立てたクーデターです。
この政変に乗じて隣国の周防国にいた大内義興は安芸武田領を襲います。
毛利氏の支援もあり難を逃れましたが、待っていたのは大内氏への従属でした。

永正2年(1505)に元綱が病死したので、元繁が家督を継ぎます。
そして、永正5年(1508)の義興の義材を再度将軍にするための上洛に従うと同時に、分家である若狭武田家が義澄と関係を作っていたことから独立を成功させます。
その後、義材が足利義植として足利将軍に再就任すると義興と共に京都に残ります。
その頃、安芸国では厳島神主家が後継者争いを始めます。

永正12年(1515)、主力が京都に入る中で起きた争いなので義興は鎮圧のために元繁を安芸国へ向かわせます。
安芸国へ向かった元繁はすぐさまに義興と対立していた尼子氏の支援を得て寝返ります。
勢力を広げる元繁を危険視した義興から支援を命じられた毛利興元と吉川元経は安芸武田家の領地にある有田城を攻略します。

今項羽の最後

興元が永正13年(1516)に亡くなるとこの混乱に乗じ、元繁は翌年の永正14年(1517)に有田城奪還のために軍を起こします。

先鋒を討ち取られた元繁は自ら軍を率い毛利・吉川連合軍と戦いますが、少数ながら抵抗してくる毛利元就が率いる軍に痺れを切らした元繁は渡河を決行します。
それを待っていたかのように毛利軍の一斉掃射により元繁は井上光政に討たれました。この戦いは有田中井川の戦いと呼ばれており、西の桶狭間とも呼ばれています。

この戦いに勝利した毛利家はこれを契機に勢力を拡大していく中で、元繁を失った安芸武田家はこれを契機に段々と衰退していくのでした。

寄稿(拾丸)

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武田信廉 武田信玄の影武者 画家としての才能も
弥助 信長に仕えた黒人の武士
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コメント

  1. いいじゃん

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