稲生政勝 於大の方を二度救った水軍の将

稲生政勝

稲生政勝(いのう-まさかつ)は、当初は稲生重勝(いのう-しげかつ)と称した戦国時代の武将です。
二十歳の頃に半田市亀崎の地を訪れ、漁師の中から若者を選び出し水軍を結成。
境川上流一帯に勢力を持つ水野忠政(みずの-ただまさ)に船奉行として召し抱えられ「政」の一字を拝領して稲生政勝と名乗りました。

天文10年(1541年)水野忠政の娘である於大の方岡崎城松平広忠に嫁ぐ事になりますが、これを聞いた織田信秀は水野家と松平家との結びつきを恐れ、花嫁の強奪を計画したと言われています。
この情報を聞いた水野忠政は稲生政勝を呼び出し、盛大な花嫁行列を陸路を進ませる裏で、於大の方を稲生政勝に預け、亀崎城から船で矢作川をさかのぼらせ岡崎城へ無事に送り届ける事に成功しました。



天文12年(1543年)水野忠政が死去すると、跡を継いだ水野信元(みずの-のぶもと)は松平広忠の主君である今川氏から離反し、勢力拡大が著しい織田家と手を結ぶ事を選択します。
於大の方は今川氏との関係を配慮した松平広忠より離縁され、刈谷城の水野信元の元へ返される事になりました。
輿に乗り岡崎衆の手で国境まで送り返されてきた於大の方ですが、姫が離縁され送り返される事を聞きつけた水野家の人々は、敵となった岡崎衆を皆殺しにしようと殺気を漲らせながら於大の方の輿を迎えます。
一触即発の状態の中、於大の方の輿を見た稲生政勝は両軍の間に入り「静まれい!」と大喝一声。
この声を輿の中で聞いた於大の方も「争いはなりません。
これも竹千代(徳川家康)の御為」と呼応したため、引き渡しは無事に終わりました。



刈谷城へと向かう輿の中で於大の方は「七郎佐(政勝)また命を救ってくれたのう。この事は忘れぬ」と感謝の言葉を投げかけたと言われ、この縁から稲生政勝の孫である稲生光正は徳川家康に旗本として仕えています。

亀崎城城址碑

その後、水野信元は稲生政勝に亀崎城の築城を命じると共に、於大の方を坂部城の久松俊勝へ再嫁させ、飯森城には政勝の娘婿にあたる稲生光春を入れて知多半島統一を目指して突き進みますが、佐久間信盛の讒言により武田勝頼に内通した疑いで徳川家康によって三河大樹寺で殺害されてしまいます。
水野家は一旦没落しますが、稲生氏は知多半島南部で水軍として勢力を持つ千賀氏の客分となり、関ケ原の戦いでは東軍として九鬼水軍と抗戦。
大阪の陣では大阪丸を始めとした軍船20隻余りを奪取する活躍を見せ、その功績から尾張徳川家に仕え三の丸に屋敷を構えたと伝わっています。

(寄稿)だい

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