上杉謙信 川中島合戦 宿命の対決を詳しく解説

上杉謙信

上杉謙信の名は宿敵・武田信玄と川中島で激闘を繰り広げた越後国大名として広く知られている。
武神「毘沙門天」の信仰家であり、旗印に「毘」を掲げたことでも有名。
「戦の天才」「名将」と称され、武田信玄と肩を並べ戦国期最強の呼び声も高く、神がかった戦略・戦術から「軍神」「越後の龍」「越後の虎」などの異名を持つほどである。
今回は上杉謙信の人物像や、武田信玄と五度に渡り対峙した川中島の戦いについて迫ってみたい。

上杉謙信 うえすぎ・けんしん

誕生日1530年2月18日(享禄3年1月21日)~没年1578年4月19日(天正6年3月13日)
越後守護代の長尾為景の四男で幼名は長尾虎千代。
初名・長尾景虎から上杉政虎~上杉輝虎と名を変える。



一般的に知られている上杉謙信とは仏門に入って与えられた法号(戒名)であり不識庵謙信と称した。

長尾景虎/越後統一

1543年(天文12年)8月15日、元服した長尾景虎は翌年の1544年(天文13年)に越後の豪族による謀反を鎮圧した栃尾城の戦いで初陣を飾る。
実兄であり当時の越後守護代であった長尾晴景の命を受け景虎は栃尾城に入った。
15歳の景虎を侮った豪族たちは栃尾城に攻め寄せる。
ここで景虎は敵本陣の背後から二手に分けた別動隊で急襲させ、敵の混乱に乗じて本体を栃尾城内から突撃させるという策で一気に敵軍を壊滅させたのだった。
その後も秀でた指揮官としての才能を発揮し、数々の戦いに勝利していく。
1548年(天文17年9年)には、兄の長尾晴景に代わり景虎を守護代に擁立する動きが盛んになり、12月30日には景虎は19歳にして家督を相続。
越後守護代となり春日山城に入る。
1550年(天文19年)2月には越後国守護の上杉定実の死去。

上杉景虎は室町幕府第13第将軍である足利義輝より越後守護の代行を命じられ、越後国主の地位が認められた。
1551年(天文20年)1月には越後国で起こっていた内乱を全て鎮圧し、越後を統一する。

第一次川中島の戦い

1552年(天文21年)、甲斐の武田晴信(武田信玄)が信濃侵攻に乗り出し、次々に制圧、領土を拡大していく。
信濃守護であった小笠原長時は越後を統一した長尾景虎に救いを求めたのである。
そして、翌1553年(天文22年)4月にはさらに北信濃まで侵攻してきた武田軍との抗争に敗れた葛尾城主、村上義清から援軍を求められた。
景虎は要望に応え、村上義清に援軍を与える。
これにより、村上軍は八幡の戦いにて武田軍を破り、村上領と葛尾城の奪還に一時は成功した。
ところが、7月には武田晴信は大軍を率いて再び村上領へと侵攻を開始。
村上義清はまたも景虎を頼り越後国への逃亡を余儀なくされるのであった。
そしてついに、長尾景虎は自ら、その勢力は越後国の国境まで迫りつつあった武田晴信討伐に立ち上がる。
1553年(天文22年)8月、越後と信濃の国境近く、千曲川と犀川に挟まれた川中島にて長尾、武田両軍は相対することとなった。
第一次川中島の戦いである。

長尾軍はこの戦いを終始優位に進め、武田軍を圧倒。
上杉景虎は武田領となっていた信濃の山城を次々と攻め落としていく。
晴信は必死の防戦となるが、9月には撤退。景虎も深追いは避け、第一次川中島の戦いは終結する。
圧倒的勢力を誇っていた武田晴信の前に、強大な敵が出現したことを知らしめる戦いであった。

第二次川中島の戦い

長尾景虎との戦いの後、武田晴信は背後を固めるため南は駿河の今川義元、東は相模の北条氏康との間で婚姻関係を結び、甲相駿三国同盟を成立させた。
互いに背後の安全を確保し、さらなる侵略に乗り出すための軍事同盟である。
そして再び晴信は川中島へ侵攻を開始。ここで晴信は、強敵、長尾景虎攻略のための策として、越後から川中島に至る街道付近にある山城、旭山城に目を付け、この地域に精通している善光寺の僧侶、栗田鶴寿を味方に引き入れるのだった。
景虎との決戦のため、地の利を活かす策を用いるためだ。
1555年(天文24年)4月、川中島に侵攻してこた武田晴信に対し、長尾景虎も出陣。
犀川を挟み両軍は対峙する。
第二次川中島の戦いが開始された。

北側から犀川を渡ろうと試みる長尾軍であったが、その脇に位置する武田支配下となっていた旭山城からの牽制により進軍を封じられてしまう。
迂闊に犀川に侵入すれば前方の武田軍と旭川城の軍によって挟み撃ちにされる危険性があったからだ。
それは武田軍とて同じであり、不用意に川に侵入した隙に前方で待ち構える長尾軍に攻められ打撃を与えられるのは明らかである。
戦いは犀川の北と南で、長尾軍と武田軍の睨み合いが続く膠着状態となった。
対峙からおよそ5ヶ月、心身ともに疲弊し限界を超えていた両軍。
その状況で先に動いたのは武田晴信であった。
晴信は駿河の今川義元を介し景虎に和睦を持ちかける。
その内容は、これまで侵略した川中島の領地をもとの領主に返還するというものであった。
義を重んじる景虎は「道義がたてばそれで良し」と、この条件を受け入れ、越後へ引き上げることとなる。
こうして第二次川中島の戦いは終結した。

第三次川中島の戦い

侵略した領地を変換するという条件で盟約を結んだ武田晴信であったが、これは再び信濃に侵攻し長尾景虎を討つ機を窺うための策略であった。
晴信は積雪により景虎が越後から出兵ができない時期を見計らっていたのだ。
第二次川中島合戦から2年後の1557年(弘治3年)2月、武田晴信は停戦協定を反故にし、信濃へ進軍を開始した。
晴信は信濃の豪族、高梨政頼の居城である飯山城攻撃。
高梨政頼は景虎に救援を要請する。
この知らせを受けた景虎は、盟約を破った晴信の進軍に激怒し、晴信討伐を決断するが、信越国境の積雪で出兵が大幅に遅れてしまうのだった。
武田晴信の侵略により信濃の豪族たちは滅亡に追いやられ、神社仏閣は破壊。
何よりも民衆の悲しみの声は絶えぬ。
隣国の主として断じてこれを黙認することはできない。
長尾景虎は雪解けの4月を待ち、正義の戦いを掲げ武田晴信討伐のため出陣する。
第三次川中島の戦いである。
両軍は三度川中島にて対峙。
長尾軍は、信濃国高井群の山田城・福島城、さらに長沼城・善光寺まで奪還し、横山城に着陣する。
そして第二次川中島合戦終結時に破却された旭山城を再興し、長尾軍本営とした。
景虎は、川中島を越え武田領奥深く、埴科郡と小県郡の境、坂木の岩鼻まで進撃。
武田晴信との決戦に挑む。
ところが、晴信は景虎との対決を避け、長尾軍が進軍してくると後退を繰り返した。
その隙に武田軍は別動隊により信濃国安曇郡の小谷城を攻め落とす。
長尾軍は武田軍の背後からの攻撃に備え飯山城まで後退。
その後、信濃国水内郡・上野原にて一時交戦状態となるが、結局、またも両軍の決着がつくことはなかった。
この戦いで、晴信は一度も戦場に現れることはなかった。
たとえ勝ったとしても被害は大きい。
ならば戦に勝たずとも、敵が去った後で巧みに領土を拡大していく。
それが晴信の兵法の極意であった。
景虎は正面から戦おうとしない晴信に苛立ちを覚えるものの、これ以上の深追いを諦め、越後へ引き上げるのだった。

小田原城の戦い~関東管領就任/上杉政虎

1559年(永禄2年)5月、景虎は上洛し正親町天皇と室町幕府第13代将軍・足利義輝に拝謁。
権力を失いつつあった室町幕府将軍の足利義輝が、有力な大名を味方に引き入れるため長尾景虎に上洛を促したのだ。
この際、景虎は将軍・義輝より関東管領の内諾を賜り、実質的に管領並の待遇を与えられることとなる。
これにより景虎は、関東の統治と、秩序回復という大義名分を得るのだった。
そして景虎は関東平定の準備を着々と進めていく。
1560年(永禄3年)5月、桶狭間の戦いにて、駿河の今川義元が尾張の織田信長によって討たれる。
これにより、甲斐・駿河・相模の三国同盟の一国が崩れた。
この機に乗じ、1560年(永禄3年)8月、長尾景虎は関東を不法に侵略した北条氏を幕府から与えられた権限により討伐し、民衆を救うという名目で、北条氏支配下の関東平野への侵攻を開始。
景虎は凄まじい勢いで北条氏支配下にある、小川城~名湖桃城~明間城~沼田城~岩下城~白井城~那波城~厩橋城と攻略し、ひとまず上野国群馬郡・厩橋城を関東侵攻の拠点として越年。
進撃の間、景虎は関東諸将に北条氏討伐の号令を下し、長尾軍への参陣を求める檄を飛ばした。
上杉景虎の圧倒的攻勢を前に、関東諸将はこれに従い、続々と集結していく。
長尾軍の兵は増大していくのだった。
翌年、景虎は武蔵国へ進軍。
深谷城忍城~羽生城などを落とし、ついに、北条氏康の居城である小田原城のある相模国へ侵攻する。
10万にも及ぶ長尾軍に小田原城を包囲された北条氏康は、正面切って戦っても勝機はないと判断し籠城策に出る。
景虎が小田原城を包囲し、戦局を優位に展開していた矢先に、永禄2年2月に出家し、名を晴信から徳栄軒信玄とした武田信玄が、信濃から川中島、そして越後へ向けての進軍を開始する気配を見せた。
今川が討たれ、三国同盟の一角が崩壊。
さらに関東平定に乗り出した景虎によって北条までも危機に瀕しているこの状況は、信玄にとって脅威であった。
万が一、小田原城が陥落すれば、甲斐は北・東・南の三方向より景虎に包囲されることになるのだ。
そしてこの年、異常気象に見舞われ、米をはじめ、農作物の収穫は壊滅的な打撃を受けていた。
民は飢餓に苦しみ、諸大名は自国の食糧確保のための出兵に迫られていた。
このままいけば、甲斐は関東を制圧した長尾景虎に食糧調達のために攻め込まれる危険が高まる。
そうなる前に景虎を討たなければ甲斐国はおろか、武田家は滅亡するであろう。
信玄に残された手立ては先手必勝しかない。
景虎が相模国の小田原城まで進軍している今、越後は手薄となっている。
ここで、越後へ向けて出陣すれば、景虎は急ぎ舞い戻ることになり、急遽武田との合戦に備えなければならない。
この機を逃すわけにはいかない信玄は、1561年(永禄4年)5月17日、越後へ向け出陣する。
この報を受けた景虎は小田原城攻撃を中断し、越後への帰還を急いだ。
長尾景虎は、関東侵攻の間の1561年(永禄4年)閏3月16日、鎌倉鶴岡八幡宮にて、山内上杉家の家督、そして関東管領職を相続。
名を長尾景虎より上杉政虎ーうえすぎ・まさとらーと改めていた。

第四次川中島の戦い

長尾景虎の関東侵攻の間、武田信玄は川中島に海津城を築城し、ここを拠点として信濃国・善光寺平の千曲川周辺地域一帯の勢力圏を拡大させていた。
越後へ帰還した上杉政虎は、1561年(永禄4年)8月、川中島へ出陣。
川中島に到着した政虎は千曲川を渡り、武田軍の拠点である海津城の眼前にある小高い山、妻女山に布陣。
海津城より東にわずか2kmの地点である。
これまで、正面から戦おうとしない信玄に対し、政虎は真っ向から決戦を挑む構えであった。
妻女山に布陣した上杉政虎、そして海津城に布陣する武田信玄。またも両軍の睨み合いが続いた。
政虎、信玄の両者は互いに敵がどう打って出るかを探っているかのようでもあった。
本来であれば、猪突して一気に攻め込んでくるはずの政虎が妻女山から動こうとしない。
今回の両者の戦いで先に動いたのは、これまで衝突を避けていた信玄の側であった。
睨み合いから15日が経過した、1561年(永禄4年)9月10日夜半過ぎ、信玄は武田軍の別動隊1万2千を闇に乗じて、上杉軍のいる妻女山の背後へ進撃させた。
信玄の策は、兵を二手に分け、別動隊が上杉軍の背後から奇襲し、妻女山を下ってきたところを武田軍本隊で迎え撃ち、正面と後方からの挟み撃ちにするというものであった。
9月10日未明、信玄率いる武田軍本隊も上杉軍を迎え撃つために海津城を出撃する。
そして、千曲川北の八幡原に布陣した。
ここで、背後を突かれた上杉軍が妻女山から下山してくるのを待つばかりであった。
記録によると、この日の明け方、川中島には濃い霧が立ち込めていたという。
やがて、夜が明け霧が晴れてくると、八幡原に満を持して布陣していた信玄をはじめ、武田軍の兵は信じられない光景を目にするのであった。
今頃、妻女山で背後を襲われ、慌てふためいて下山しているはずの上杉軍が、すでに武田軍の眼前に隊列を整え攻撃態勢で布陣していたのだ。
武田信玄の策略を、上杉政虎は見抜いていた。
政虎は妻女山で動かずとも海津城の様子を絶えず探らせていたのだ。
そして前日の夕刻、武田軍の動きを察知した政虎は全軍に「すぐさま、下山の準備を整えよ」との指令を下す。
深夜、武田軍の別動隊が現れる前に、上杉軍は行軍を開始し妻女山を下っていたのだった。
その間、武田軍に動きを悟られてはならない。
全ての馬には嘶かぬように薪を噛ませ、兵には一切声を立てぬように厳命。
1万3千の上杉軍の行軍は音もなく続き、密かに千曲川を渡る。
その動きは一糸乱れぬ統率されたものであった。
闇の中、上杉軍は千曲川の北に武田軍に先んじて布陣を完了させていたのである。

1561年(永禄4年)9月10日早朝、上杉政虎の大号令が飛び、上杉軍の攻撃が開始される。
第四次川中島の戦いの火蓋は切って落とされた。
上杉軍は怒涛の勢いで武田軍に大打撃を与えた。
予期せぬ事態に動揺した信玄以下武田軍は動揺し劣勢に追い込まれる。
この頃、武田軍の別動隊は政虎がいるはずの妻女山がもぬけの殻となっていたことを知り、武田本隊がいる八幡原に急行。
その動きを計算していた政虎は、千曲川の対岸にも部隊を展開させ、川を渡ってくる武田別動隊の本隊合流を封じる。
武田方からすれば、前後で敵軍を挟み撃ちする策を逆手に取られるかたちとなってしまったのである。
上杉軍の猛攻に、完全に後手に回ってしまった武田軍の守備は次々と突破されていく。
ついに上杉軍は、信玄のいる武田本陣にまで迫ったのだった。
そして、武田軍の囲みを破った上杉の家臣、荒川伊豆守ーあらかわ・いずのかみー(荒川長実ーあらかわ・ながざねー)は信玄に迫り、馬上から斬りかかった。
武田信玄は軍配でその太刀を受け振り払う。

【上杉家御年譜】によると、荒川伊豆守は信玄に3太刀浴びせ、2ヶ所に傷を負わせるものの討ち取るには至らなかったという逸話が残っている。
また【甲陽軍鑑】によると、武田信玄に斬りつけた人物が上杉政虎であったという噂があったと記述されている。
このことから、上杉謙信と武田信玄の一騎打ちや三太刀七太刀といった伝説が現在にも伝わる。

この信玄絶体絶命の危機に、武田軍の兵が伊豆守の馬を槍で突いて応戦。
伊豆守は退却し、信玄は窮地を逃れた。
上杉軍の勢いを前に、このままでは本陣が破られるのは時間の問題。
しかし、信玄は動ずることなく頼みの綱である別動隊の到着を待った。
徐かなること林の如く、動かざること山の如し。
そして上杉軍の猛攻から約4時間後、時刻にして午前10時すぎであった。
信玄が待ち望んでいた、別動隊が千曲川をようやく渡り、八幡原へ到着したのである。
別動隊合流の知らせを受けた信玄は、軍配を高々と掲げ、全軍に突撃の命を下す。

武田軍の反撃開始であった。その勢いは、まさに疾きこと風の如く、侵掠すること火の如く。
早朝からの度重なる突撃により疲労が見え始め、しかも武田本隊と別動隊によって挟み撃ち遭い浮足立つ上杉軍。
それに対し、別動隊到着で士気が高まる武田軍。
戦況は一転、形勢は一気に逆転した。それでも上杉軍は退かず両軍の戦いは夕刻まで繰り広げられる。
後世にまで語り継がれる激闘であった。
そして午後4時頃、上杉軍はついに撤退。死傷者2万7千にも及んだ死闘は終結。
上杉政虎と武田信玄、両者共にこの戦いを勝利と位置付ける。
東国の覇権を賭けた、歴史に残る大激闘は互いに大打撃を与え痛み分けに終わった。
こうして、川中島の戦いにおいて最も壮絶を極めた第四次決戦は幕を閉じたのだった。
川中島は武田の領土として残り、政虎の関東平定は叶わなかった。
信玄も越後への侵攻を断念し、その矛先を西へと向けることになる。

第五次川中島の戦い~その後の謙信と信玄

1561年(永禄4年)12月、上杉政虎は室町幕府将軍・足利義輝より一字を賜り、名を上杉輝虎と改める。
そして1564年(永禄7年)8月、上杉輝虎と武田信玄は川中島にて第五次川中島の戦いで対峙する。
しかし、60日間の睨み合いの後、互いに激突を避け撤退。
またもや両者の決着がつくことはなかった。
これ以後、両者が川中島で相対することはない。

1570年(元亀元年)12月、輝虎は仏門に入り、不識庵謙信の法号を称し、名を上杉謙信と改めた。

その後、武田信玄は西へ領土を拡大していき、織田信長との天下を賭けた戦いを控えていた矢先、三方ヶ原の戦い徳川家康を破った直後から持病が悪化。
喀血を繰り返し上洛を断念。
療養のため甲斐への撤退を始めるが、その帰路で死去する。

そして上杉謙信も、1576年(天正4年)10月、室町幕府第15代将軍・足利義昭より織田信長討伐を求められ上洛を急ぐことになる。
上洛途上、上杉謙信は越中国に侵攻。
富山城~栂尾城~増山城~守山城~湯山城~蓮沼城を次々に撃破し、越中を平定する。

さらに、能登国に侵攻。
能登・熊木城~穴水城~能登・甲山城~正院川尻城~富来城を攻略。
七尾城の戦いでは苦戦を強いられ越年。
翌年、北条氏政による進軍で、能登国にて落とした諸城を奪われ戦況が悪化し、将軍・足利義昭と毛利輝元より早期上洛を密書にて促され七尾城奪取を断念。
同年の閏7月、謙信は再び能登国に侵攻。
能登の諸城を再奪取し、第二次七尾城の戦いに踏み込む。
苦戦の末、9月15日、七尾城を落とし、未森城までも攻略する。
これにより謙信は能登国も平定。
その間、謙信が七尾城で交戦中の1577年(天正5年)、七尾城救援のため、織田信長は軍を派遣している。
総大将に柴田勝家、以下、羽柴秀吉・前田利家・丹波長秀・滝川一益佐々成政らによる3万にも及ぶ大軍勢であった。
柴田勝家率いる織田遠征軍は8月には能登国に向けて進軍を開始するが、七尾城陥落を知るのは、謙信がすでに迎撃態勢を整えていた9月23日だった。
勝家は能登国、手取川を渡り陣を張った。
しかし、七尾城の陥落と、上杉軍が数万の軍勢で布陣していることを知ると、形勢不利と判断し、即刻撤退を命じる。
そして23日夜、謙信は手取川を渡り引き上げようとする織田軍を、本隊8千を率いて追撃。
完膚なきまでに撃退した。

上杉謙信の最期

1577年(天正5年)12月18日に上杉謙信は越後に戻る。
春日山城に帰還した謙信は23日、次の侵攻へ向け命を下した。
翌年の1578年(天正6年)3月15日の遠征出発を予定していた。
しかし、出発の6日前である1578年(天正6年)3月9日、謙信は春日山城内で倒れる。
そのまま昏睡状態に陥り、天正6年3月13日末の刻(14時頃)、上杉謙信は急死する。享年49歳であった。

上杉謙信には、その人となりを窺わせる逸話がいくつも残っている。
敵対していた武田信玄が、三国同盟が破綻し、南の駿河国・今川氏とも関係が悪化。
内陸地である甲斐は、海への交通路が断たれ塩がまったく手に入らなかった。
命の塩がなく、民は苦しんだ。
そんな状況下にあったとき、信玄のもとに大量の塩が届けられたのだ。その塩を贈ったのは上杉謙信であった。
たとえ、宿敵である武田信玄であっても、その窮地には手を差し伸べるという、謙信の生き様を表す逸話である。
強敵・武田信玄とは実力で決着を付けるのだという、謙信の矜持を感じさせる。
この逸話がたんなる伝説なのか、それとも事実であったかは定かではない。しかし、人々にそう思わせるだけの人物であったからこそ、今日まで語り継がれているのではないだろうか。



そして、上杉謙信の宿敵、武田信玄が死の間際に、息子である武田勝頼に向けて言ったと伝わる言葉がある。

「上杉謙信と和議を結ぶこと。
謙信は男らしい武将であり、頼れば若いお前を苦しめるようなことはしないであろう。
わたくしは、大人げないことに最後まで謙信に頼るとは言い出さなかった。
お前は必ず、謙信を頼りとするがよい。
上杉謙信とはそのような男である(甲陽軍鑑より)」

(寄稿)探偵N

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