真田幸村(真田信繁)大阪の陣 家康に死を覚悟させた智将

真田幸村

真田幸村という名で広く知られ、変幻自在の戦いぶりから真田十勇士などの数々の伝説も生み出されている真田左衛門佐信繁。大坂夏の陣において、徳川家康に肉薄するところまで追い詰めたという逸話が後世の人々に英雄として称賛される要因にもなっており、歴史好きでなくとも真田幸村という名は名将/智将といったイメージを持っている人も多いだろう。
今回は、豊臣方に付き徳川と戦った真田幸村(信繁)の大阪冬・夏の陣について迫ってみたい。

真田幸村とは

真田信繁/さなだ・のぶしげ(幼名・弁丸/源次郎)
幸村の名が一般的になっているが正式な諱は信繁。今回は幸村で統一する。



信濃国の国衆であった真田昌幸(さなだ・まさゆき)の次男として産まれた。幸村の生誕には1567年(永禄10年月日不明)と1570年3月8日(元亀元年2月2日)説があり、死没は1615年(慶長20年5月7日)で生誕が前説であれば享年49歳、後説では46歳ということになる。
真田家は小国の国衆として周囲を上杉・北条・徳川といった大勢力を誇る大名の強国に囲まれていたが幸村の父昌幸は主君や同盟相手を巧みに変えつつ生き残り、本能寺の変織田信長の死後は羽柴秀吉に臣従し国衆から大名となる。
その後、幸村は秀吉のもとで馬廻衆として武勇を残し、1594年(文禄3年)に左衛門佐の位を任ぜられ豊臣姓を賜る。

関ヶ原の戦い~そして九度山への追放

1598年9月18日(慶長3年8月18日)太閤豊臣秀吉が死去。時代は風雲急を告げる。豊臣政権下の五大老の一人である徳川家康が次々に諸大名を屈服させ勢力を拡大させていった。そしてついに家康は天下を手中に治めるために決起し、1600年6月(慶長5年)五大老の一人である上杉景勝討伐のため会津へ進軍を開始した。
それに伴い、豊臣方では石田三成が徳川方との対決のために挙兵するのだった。
1600年10月21日(慶長5年9月15日)豊臣方は総大将・毛利輝元、そして石田三成、宇喜多秀家らの指揮下で結成された西軍(兵力8万)と、徳川方の東軍(兵力7万4千~10万4千)が相対する関ヶ原の戦いが勃発。
この天下分け目の戦いにおいて真田幸村と父の昌幸は西軍につき、幸村の兄である真田信之は東軍につくこととなり、幸村と兄の信之は袂を分かつのだった。
徳川軍は三成軍との対決のため家康自信が指揮する軍と、その息子である徳川秀忠が指揮する軍とで二手に分かれ西へ進軍する。家康軍は東海道へ、そして秀忠軍は徳川の実質的な主力部隊ともいえる3万8千の兵を率いて中山道へ進軍した。信州・上田城を本拠としていた真田幸村と父昌幸は、徳川軍の主力である秀忠軍を迎え撃つこととなった。
しかし秀忠軍3万8千に対し、真田軍の兵力は僅か2千五百。まともに太刀打ちできる相手ではなかった。そこで幸村と昌幸は籠城戦で秀忠軍に対抗したのだ。圧倒的兵力差にあり、誰の目にも勝利が確実であった秀忠はまず上田城の昌幸に降伏勧告を促す。この勧告に昌幸は「考える時間が欲しい」と返答する。その2日後、返事を催促しに来た秀忠の使者に昌幸は「返事が遅れたのは籠城の支度に手間がかかったため。しかしながらお時間を頂いたおかげで支度は整いました」と答えた。
こ返事に秀忠は激怒。



一気に上田城制圧に乗り出す。攻め込んでくる秀忠軍を真田軍は巧みな戦術で混乱に陥れるのだった。真田軍は秀忠軍を挑発し上田城の内部まで引き寄せると鉄砲による一斉攻撃を浴びせるなど、敵軍の指揮統率を失わせると、さらに城から逃れようとする秀忠軍を幸村軍が追撃。真田軍は少数の兵力で10倍以上の兵力の秀忠軍に勝利し、敵の進軍を足止めしたのだった。これにより、秀忠軍の関が原への到着は大幅に遅れることとなる。
これにより、1600年10月21日(慶長5年9月15日)関ヶ原の戦いは石田三成擁する西軍有利になるのかと思われたが、徳川軍主力である秀忠軍の到着前に、徳川家康擁する東軍の勝利により雌雄は決した。
その後、本来ならば敗軍の将として死罪となるはずであった幸村と昌幸であったが、徳川方についていた兄の信之の嘆願により辛うじて死罪だけは免れる。しかし、家康より幸村と昌幸は紀伊国(紀州)への追放と蟄居を命ぜられるのだった。幸村と昌幸は九度山(現在の和歌山県九度山町)にて蟄居生活を余儀なくされた。
1603年(慶長8年)徳川家康は征夷大将軍となり江戸幕府を創設した。幸村の兄である真田信之は10万石の大名の地位を与えられる。その信之の仕送りに頼り九度山での生活を送っていた幸村と昌幸であったが、生活は貧しく大事を成し遂げることも叶わず、いたずらに時だけが過ぎていくのであった。追放から11年後、1611年(慶長16年)父・昌幸は病に倒れ死去する。死の間際、昌幸は「今一度、徳川と戦いたかった」と言い残しこの世を去ったという。

大坂冬の陣/幸村立つ

1614年(慶長19年)15年にも及ぶ追放生活を送っていた幸村にとっては千載一遇の好機が訪れる。関ヶ原以来、再び徳川と豊臣の関係を悪化し、対決の気運が高まっていたのだ。
徳川家康にとっては豊臣家の存在は邪魔者以外の何物でもなかった。豊臣家を討ち滅ぼす機を窺っていた家康に、その口実となる出来事が起こった。家康は豊臣家が豊臣秀吉創建の方広寺の大仏再建を行った際、鋳造した寺の鐘に刻まれた【国家安康】の文字に、徳川家康の「家」と「康」を分断する、すなわち徳川家に対する謀反の意ありという疑いをかけたのだ。そもそも寺の再建はは家康が豊臣秀頼にすすめたことであり、家康による豊臣家を滅亡させるための口実を作る計画的な陰謀であったことは明白である。
家康はこの機に乗じ豊臣家を討ち滅ぼすべく戦力を集結させ、戦の準備を開始。
一方、豊臣秀頼も徳川との決戦に備えるために諸大名に呼びかけるが、もはや圧倒的権勢を誇り日本を掌握した家康に敵対することとなる、豊臣家に加勢する大名はいなかった。そこで豊臣家は、関ヶ原の戦い以後、お家断絶などの影響で主家を失い、どの大名家にも就くことができない多くの牢人を雇う策を講じた。豊臣家からのその知らせは、九度山で15年にも及ぶ蟄居生活を送っていた真田幸村の元にも届くのだった。
1614年11月(慶長19年10月)九度山にいた幸村の元に秀頼からの使者が訪れ、徳川との決戦のために大阪城へ馳せ参じて頂きたいとの書状が届いた。そのための資金として豊臣から幸村へ黄金200枚と銀30貫が進呈された。これは現在の金額に換算して約9億円に相当する。関ヶ原の戦いにおいて、徳川軍に大きな打撃を与えた幸村の手腕を買われてのことである。
このまま九度山で無為に生きるのか、それとも強敵徳川と武士としての誇りを賭けて戦うのか。幸村にとって選ぶ道を迷う必要はなかった。
真田幸村は15年もの屈辱の沈黙からついに立ち上がる。そして真田家の旧臣達も幸村の元に集結。その中には嫡男の真田幸昌真田大助)もいた。
1614年11月11日(慶長19年10月10日)幸村は旧臣達を従え、大阪城に入城する。

大坂城

1614年11月24日(慶長19年10月23日)徳川軍は大阪城に迫る。その兵力約20万もの大軍であった。それに対し豊臣軍の兵力は約9万。豊臣方は大阪城にて秀頼と母の淀殿大野治長、そして幸村ら牢人達による軍議を行う。豊臣軍の実質的な司令官は秀頼の家臣であった大野治長だったのだが、実戦での経験は乏しかったといえる。その治長が主張したのは大阪城に立て籠もって戦う籠城戦であった。しかし幸村はこの策に反論。籠城ではなく、大阪城から兵を出し徳川軍を迎え撃って敵の不意をつくべきだと訴えた。ところが大野治長ら豊臣家家臣たちには牢人である幸村の主張は聞き入れられず、籠城策が決定されることとなる。
1614年12月18日(慶長19年10月18日)徳川軍は大阪城に布陣。20万もの兵で城を包囲した。
幸村はこの圧倒的大軍に対抗すべく、大阪城の外部に出城(真田丸)を築く。大阪城は周囲を二重・三重の水堀を巡らせることにより防御に備えていたが、しかし城の南に位置する場所には水のない空堀があり防御が手薄だったのだ。幸村はこの空堀の外に出城を築き敵の注意を引きつける陽動作戦に打って出るためであった。
幸村は5千の兵を率いて真田丸に布陣。徳川軍の兵を挑発して誘い込み、敵を引きつけて銃弾を浴びせる作戦によって次々に撃退。徳川軍に大打撃を与えることに成功する。この真田丸の戦いが幸村の名を徳川方をはじめ天下に轟かせるきっかけとなった。
この事態に家康は幸村の懐柔に乗り出す。徳川方にいた幸村の叔父にあたる真田信伊を使者として差し向け、十万石を与えるのを条件に徳川方に寝返るよう促す。この提示に幸村は「紀伊国にて無為の人生で終えるところを秀頼様に召し出され、武士として面目を立てていただいた身。この恩は土地や金には到底代えることはできない」とこれを断る。



しかし、家康は再び信伊を使者として送り、今度は信濃一国を与えるという破格の条件を提示した。それにも幸村は応じず、使者の信伊との対面も拒絶した。
1615年1月21日(慶長19年12月22日)一進一退の攻防で徳川方にも大きな被害をもたらした大坂冬の陣は和睦によって幕を閉じる。
しかし家康は次の戦いを視野に入れた策略を講じる。まず、和睦の条件として大阪城の堀を埋め立て、真田丸も取り壊した。城の防御力を削ぐためだった。

大坂夏の陣/幸村の最終決戦

和睦も束の間、1615年6月(慶長20年5月)徳川家康は豊臣家に謀反の疑いありと再び諸大名を率いて大阪へ進軍を開始する。そして慶長20年5月5日、徳川軍は大阪城に到着。この時、家康は兵に三日分の兵糧しか与えず自らは鎧も着けなかったとされる。そして「この戦いは三日もあれば決着がつく。鎧など必要ない」と豪語したという。
1615年6月3日(慶長20年5月7日)大阪城にて再び徳川軍と豊臣軍との決戦が展開される。大阪夏の陣といわれる戦いである。
徳川軍約15万は城の南側に布陣。家康がいる本陣は後方に位置する。それに対し豊臣軍約5万は城を守るように徳川軍と対峙する。幸村率いる真田隊は豊臣軍の最前線にあり、周辺を上から一望できる茶臼山という丘に布陣した。

茶臼山

圧倒的な戦力差の前に、まともに正面から戦っても勝ち目はない。幸村が講じた策は、まず伏兵を徳川軍後方に回り込ませ、その合図を待ち、敵本陣後方に展開した合図と同時に幸村本体が囮となって敵陣に攻め込む。戦闘状態となり、敵軍を引きつけている間に、後方から伏兵の部隊が敵本陣を攻撃し家康を討つというものであった。
豊臣軍司令官・大野治長もこの作戦に合意。幸村は伏兵からの合図を待った。ところがここで誤算が生じる。
伏兵からの合図の前に発砲があり、銃撃戦が始まってしまったのを皮切りに緊張状態であった全軍が戦闘に突入してしまい、収拾がつかない状態となってしまった。もはや当初の作戦は諦めざるを得ない。万策尽き追い詰められた幸村は「今はこれまでなり、最後の戦を快く成すべし」と告げ、家康本陣を目掛け突撃したのだった。狙うは徳川家康の首ただ一つ。幸村隊は敵本陣に向け凄まじい勢いで突進する。この凄まじさに徳川軍は恐れおののき、総崩れとなり家康を守護する旗本まで逃げ出すほどであった。そしてついに幸村は大軍を突破し家康に肉薄するまでに迫ったのだ。この事態に家康は自害を覚悟したともいわれている。
しかし、幸村決死の突撃も家康に手が届く寸前で態勢を立て直した徳川軍の反撃により阻まれ、兵力差に劣る豊臣軍もやがて瓦解していった。
敵本陣から撤退した幸村は、天王寺近くにある安居神社境内にて自らも傷つきながら瀕死の部下の介抱をしていたが、そこを発見された越前松平家鉄砲組頭・西尾宗次によって討ち取られたのだった。
真田幸村(真田信繁)1615年6月3日(慶長20年5月7日)戦死。享年49歳(46歳の説もある)であった。



小国の武将として大きな勢力と対抗し、一時は長きに渡り苦渋を飲まされ、乱世に翻弄された幸村であったが、そこから這い上がり天下にその名を知らしめた英雄として後世に至るまでに多くの人々の中に深く生き続ける漢となった。
その幸村の生き様と、どのような不利な状況をも打開するために立ち向かう漢の雄姿は、いつまでも人々の手本となり輝きを失うことはないであろう。

(寄稿)探偵N

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