中川重政 織田信長に近い織田一族の陰での活躍

中川重政

中川重政(なかがわ-しげまさ)は、生没年不詳の戦国武将で父は織田刑部大輔?とされます。
弟とれる津田盛月、木下雅楽助、津田正勝だけでなく、竹中半兵衛の嫡男・竹中重矩の正室になった娘、名古屋山三郎の母も、父は織田刑部大輔とされますが、織田家は比較的子だくさんでもあることから、この父(織田刑部大輔)に関しては、混同している資料もありよくわかっていません。
斯波一族とする説もあるくらいで、昔の史料の段階で、よくわかっていません。
いずれにせよ、尾張・織田一族だったようで、中川重政は最初、織田駿河守(織田越前守)と称しました。
のち中川伊治(中川治郎左衛門伊治)の養子となって、中川八郎左衛門と改名したと言われています。
単純に考えられるのは、中川重政は家督を継げる立場ではなかったと言う事になりますので、もしかしたら、兄がいた可能性もあるのですが、不明です。
また、この尾張・中川家に関しても詳しくはわかりません。


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織田信長に近い一族として仕えた4兄弟は武勇に優れており、中川重政は尾張の統一にも貢献し、黒母衣衆に加わっていました。

1568年に、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、京都と畿内を取り締まりする役割についたようで、連判状では、明智光秀・木下秀吉・丹羽長秀ら中川重政の名も見受けられます。

しかし、1569年の大河内城への攻撃では、織田信長に従っている馬廻の1人と言う事ですので、大規模な軍勢を持っていた訳ではなかったようです。

1570年、六角義賢らの残党に備えた際に、中川重政は安土城の守備を指揮する立場になったようです。

しかし、隣接する長光寺城に入った柴田勝家と利権をめぐって争いとなり、弟・津田盛月が柴田勢の代官を殺害してしまいます。
そのため、織田信長の逆鱗に触れて、弟と共に中川重政は改易(所領没収)となり、追放・蟄居処分となって、徳川家康が身柄を預かりました。
その時、剃髪して土玄と号し、僧侶となっています。

1572年、武田信玄が西上した際には、徳川勢として三方ヶ原の戦いで奮戦しました。
その活躍のおかげか、翌年、織田信長に許されて復帰すると、再び、安土城の留守居を任されるようになりました。
ただし、以前のような戦歴は見受けられない状態です。

1582年、本能寺の変のあとは、織田信雄の家臣となり、1584年、羽柴勢との小牧・長久手の戦いでは織田信雄の命にて犬山城を守備しました。
しかし、羽柴秀吉の重臣・池田恒興から攻撃を受け、その後の消息は不明となっています。
弟・木下雅楽助も、岡崎城を攻撃するべく前進中に討死しています。


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その後、弟・津田盛月と蜂須賀正勝が、豊臣秀吉の妹・朝日姫と徳川家康の縁談をまとめました。

子・中川光重は、前田利家の次女・簫姫(瑞雲院)を正室に迎えていたことから、加賀に赴き、末森城の戦い、七尾城の戦いなどで貢献し、2万3000石で前田藩の重臣となっています。

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