足利義輝とは わかりやすく3分で解説

足利義輝

足利義輝(あしかが-よしてる)は、戦国時代にかけての室町幕府第13代将軍です。
1536年に、第12代将軍・足利義晴の嫡男として京の東山・南禅寺にて生まれました。
母は近衛尚通の娘です。
弟には、足利義輝、足利義昭がいます。

この頃、京では、管領・細川晴元が権力を握っており、父・足利義晴は、たびたび、坂本や朽木谷に逃れるなど情勢は不安定でした。
その後、細川晴元の家宰・三好長慶の軍事力に圧倒され、足利義輝が11歳のとき、父・足利義晴は、将軍職を譲ります。
将軍就任式は京都ではなく、亡命先である近江・坂本の日吉神社にて行われたと言います。
このあと、京に戻れましたが、再び、足利義晴・足利義輝親子は、近江に逃れたり、帰京したりを繰り返しました。


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ただし、精力的に各地の大名に支援を呼び掛けており、足利義輝から一字を得た大名は、下記の通りです。
上杉輝虎(上杉謙信)、朝倉義景伊達輝宗最上義光島津義久毛利輝元など。 

1549年、細川晴元と三好長慶が対立すると、父・足利義晴は細川晴元を支持しますが細川氏が敗れて、再び、2人は、近江・朽木谷の
朽木氏岩神館などに逃れました。
1550年には、父が40歳の若さで病にて亡くなっています。

三好長慶は、河内・飯盛山城に入って、事実上の天下を取りますが、反発する畠山高政と六角義賢が蜂起すると、久米田の戦いにて三好実休が討死し、三好勢は勢力を弱めていきます。

1564年、三好長慶が病死すると、今度は、台頭した三好三人衆と松永久秀が、権力を得ようとします。

松永久秀は、足利義輝の叔父・足利義維と仕組んで、足利義栄(足利義輝の従兄弟)を将軍候補として擁立すると、1565年に三好三人衆(三好長逸三好政康岩成友通)らと二条御所の足利義輝を襲撃しました。

進士信周らの近臣が早々に討死し、剣豪・塚原卜伝から剣術を学んでいた足利義輝は、畳に刀を十数本差しておいて、刀が切れなくなったら、新しい刀を畳から引き抜きて、抵抗し30人を斬ったとも伝わります。(永禄の変)
しかし、畳を盾に取り囲まれて、槍に突かれて討死しました。(自刃したとも) 享年30。


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その後、三好三人衆と三好義継・松永久秀の間で権力闘争となります。
この混乱に目をつけたのが織田信長で、明智光秀細川藤孝らの支援を受けていた足利義昭を擁立して、京へ上ることになります。

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