鎌倉景政とは 大庭景義・梶原景時・上杉謙信らの先祖

鎌倉景政

鎌倉景政(かまくら-かげまさ)は、相模の中を領していた鎌倉景成の子として平安時代の1069年に生まれました。
平安時代末期には鎌倉景政(鎌倉権五郎景政)の館が、八王子・浄泉寺の辺りの椚田にあったとされます。
しかし、定説では鎌倉景政の居館は藤沢市村岡東、又は鎌倉市由比ガ浜とされています。

ただ、ここ椚田(くぬぎだ)に館を構えたのは、八王子市仏教会の説明だと18歳である1086年とあります。
なお、鎌倉景政が右目を射られながらも奮闘した逸話があるのは、後三年の役(1083年~1087年)です。
これらを考慮し、目を射抜かれたのが1087年だとすると、元服するとここに住みますが、後三年の役の際に目を負傷。
その後、父・鎌倉景成のあとに家督を継ぐと鎌倉近くの本領に移ったとも推測できます。



鎌倉景政は1105年頃に大庭御厨(神奈川県藤沢市周辺)を開発して、1116年頃には伊勢神宮に寄進していますが、没年は不詳です。
しかし、寺の説明では1083年の16歳の時に目を射られ、1087年9月9日に死去したとあり、もう、よくわかりません。
武士の中の武士の鏡とも言われた鎌倉景政ですので、色々な説がある中の1つとして浄泉寺の話もあると言う事だと思います。

右目の話ですが、源義家勢の先鋒に加わっていた鎌倉景政は、清原勢が放った矢が右目に刺さりながらも、逆に敵を射殺して自陣に帰ったのです。
痛み苦しむ鎌倉景政を見た三浦為次(三浦平太郎為次)が、刺さった矢を抜こうと鎌倉景政の顔に足をかけたと言います。
これに対して鎌倉景政は、怒って三浦為次に斬りかかりました。
「武士であれば矢が刺さり死ぬのは本望だが、土足で顔を踏まれるのは恥辱だ」と言い放ったのです。
三浦為次は謝罪すると、丁重に矢を抜いたと伝わっています。



八王子の浄泉寺近くを流れる湯殿川沿いの御霊神社はこの鎌倉権五郎景政が祀られていますが、神奈川県には御霊神社は多くあり、同じく鎌倉権五郎景政が祭神となっています。
ただし、御霊神社の守護神は元々浄泉寺にあったそうで、明治の神仏分離で別れたとの事です。

ちなみに、鎌倉景政の子孫は、鎌倉武士の大庭景義、梶原景時戦国時代長尾景虎(上杉謙信)と繋がります。

鎌倉の御霊神社はこちら

なお、鎌倉時代初期には横山党の一族が八王子の椚田に住み、椚田氏を称していますので、その館として使われた可能性もあるかと存じます。
和田合戦にて椚田太郎、椚田次郎、椚田三郎、椚田四郎、椚田五郎、椚田又五郎が討死し、横山党は滅亡しています。

横山党 武蔵七党の最大勢力
大庭景親とは
浄泉寺城(近藤砦) 近藤綱秀の居城
近藤綱秀とは 北条氏照の重臣

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