青木一重

青木一重

青木一重(あおき-かずしげ)は、戦国時代の武将で、斎藤道三に仕えたていた青木重直の子として1551年に生まれました。
ただ、父は引き続き斎藤義龍に仕えましたが、青木一重は美濃から離れて、駿河の今川氏真に仕えました。
そのため、1568年、武田信玄が駿河に侵攻した際、青木一重は不詳したようで、今川家が滅亡すると、掛川城下にて浪人したようです。
しかし、1570年、徳川家康に見出されて家臣に加わりました。
姉川の戦いでは、朝倉家の武将・真柄直隆の子である真柄隆基(真柄十郎)を討ち取っています。
1572年、武田信玄が西上した際には、本多太郎左衛門と共に高天神城の守備を固めていますが、このとき、弟・青木重経が討死しました。
1573年、青木一重は、徳川家から出奔すると、織田信長の重臣・丹羽長秀に仕えていた父・青木重直を頼っています。
こうして、丹羽家の家来となって、 山崎の戦い賤ヶ岳の戦いなどに参陣しました。
1585年、越前・東郷槇山城主となっていた丹羽長秀が死去すると、羽柴秀吉の使番となり、のちには黄母衣衆となりました。
なかなか、世渡りがうまいですね。
青木一重は摂津・麻田城主として約1万石の所領を受けており、父・青木重直は、豊臣秀吉の御伽衆となっています。
1588年には、野々村雅春、速水守久ら精鋭の馬廻の七手組(御馬廻七頭)の筆頭として見受けられます。
1600年、関ケ原の戦いでは、大坂城の警護任務に従事していたようで、その後も豊臣秀頼の身辺警護を担ったようです。

1614年、大坂冬の陣では大坂城にて守備しましたが、12月になって和議交渉が始まると、豊臣家の礼謝使節として駿府城の徳川家康に派遣されました。
京都にて、徳川家が返事すると言うので、京都所司代・板倉勝重を訪ねると「大坂に戻れば、徳川家康に近侍している弟・青木可直を殺害する」と脅されます。
史実上の人質を取られていたため、青木一重は大坂に帰らず、剃髪すると隠棲しました。

そのため、1615年の大坂夏の陣には参加していませんが、七手組7人のうち4人は落城と共に討死しています。

青木一重は、戦後、二条城に呼び出されると、再度、徳川家康に仕えることになり、摂津・麻田藩1万石の安堵と、父の遺領2000石を弟・青木可直への継承が認められました。

なお、大坂夏の陣にて、青木一重の代わりに指揮を執った養子・青木正重を、病気を理由に廃嫡し、代わりに弟・青木可直の子である青木重兼を迎えて養嗣子に据えました。
青木一重は、1628年に死去。享年78。

伊木遠雄~真田丸における真田幸村の軍監

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