徳川斉昭「攘夷の巨魁」として生きた幕末の名君と水戸藩

徳川斉昭

徳川斉昭(とくがわ-なりあき)は、寛政12年(1800年)3月11日に水戸藩主・徳川治紀の子として江戸に生まれた、水戸藩・九代藩主である。
強烈な個性をもって藩政改革に取り組み、行動力で幕末の歴史を自ら動かした人物といってもよいであろう。
尊皇攘夷(そんのうじょうい)の先駆けと呼ばれた幕末の水戸藩を通して、斉昭の行動力や功績についても迫りたい。

家督を相続するまで

斉昭は江戸の小石川藩邸で生まれ、幼くも英才教育を受け、部屋住みながら聡明さを発揮した。
兄である八代藩主・徳川斉脩は、病弱で子宝に恵まれなかった。
水戸藩では、斉脩の存命から継嗣問題が囁かれ、十一代将軍・徳川家斉の二十一男を養子に迎えたい門閥派と、斉昭を擁立する水戸藩の血脈を守りたい改革派が対立したが、改革派が勝利し斉昭が九代藩主となる。



派閥争いが起こった背景は、門閥派が財政難に苦しむ藩財政を、将軍の実子を迎えることで江戸幕府の援助を引き出す狙いがあったようである。
斉脩が死去し、斉昭が藩主に決定したのは30歳のことである。

藩政改革始まる

斉昭は、おもむろに事を成す性格ではなく、常に行動力の人物であり、すぐに改革が始まった。
まず、藩財政の立て直しを図り、倹約令を打ち出す。
改革には常套手段といえる倹約令だが、部屋住み時代の長い斉昭には、たいして苦にはせず、自ら率先して見せた。
次に斉昭は、自らの改革の四大目標を掲げる。
▪️水戸藩の検地を改めて行い、境界を正すことで領内の秩序を保つ。(経界の義)
▪️城下の藩士を郡部に土着させ軍備拡充に繋げる。(土着の義)
▪️藩校である弘道館や、その他の郷校を創設する。(学校の義)
▪️藩士の江戸定府を廃止する。(総交代の義)
斉昭は、擁立に関わった戸田忠太夫や藤田東湖といった藩士を登用し改革に乗り出した。
時には現実を無視した斉昭独自のこの改革は、後に幕府との決定的な関係悪化に繋がることになるが、長く続いた藩の習慣を変えようと専念したのは、幕末の藩主・斉昭の行動力だけだったといえる。

弘道館と尊皇攘夷

斉昭の改革で最も注目されるものは、弘道館を創設するなどの文教政策であろう。
弘道館は、斉昭が改革の一環として水戸城内に創設し、幅広い分野の学問を取り入れ、藩士教育を行った藩校である。



弘道館の教育方針を記した弘道館記には、「尊皇攘夷」という言葉が出ており、用例として最も早いと思われ、その水戸藩の理念と精神は、幕末の象徴的なスローガンとなっていく。

水戸学とは

水戸学(みとがく)は、朱子学を主流としながら、国学や史学も取り入れた水戸藩独自の学風で、この学風は当然弘道館では根幹をなした。
水戸藩では、二代藩主・徳川光國による、大日本史の編纂事業にともなって尊皇思想を中核とする国家観が形成された。
斉昭が藩主となった時代になると、欧米列強の脅威と幕藩体制の弱体化が顕著となり、尊皇思想を基本として攘夷に結びつける思想が、斉昭の改革のなかで加わった。
前者が「前期水戸学」後者が「後期水戸学」と区別されるが、光國時代からの独特な土壌が、弘道館や尊皇攘夷を生み出した。

幕府との関係悪化

尊皇思想に基づく、斉昭の愛国主義は、次第に排外意識を強めていくことになる。
斉昭は、水戸で「追鳥狩」と称した大規模な軍事訓練を行ったり、寺院の釣鐘や仏像をことごとく没収し、大砲の材料とするなどの過激な行動は、多くの反発を招いた。
また斉昭は、幕府に大船建造禁止令の撤廃を求め、さらに南下しているロシアに備えるため、蝦夷地を水戸藩が引き受けたいという提言をしている。



水戸藩は慢性的な藩財政の赤字に陥っていたが、蝦夷地を水戸藩領とし開発を行うことで、藩財政を好転化させることも一つの狙いであったが、黒船来航以前の幕府に、外国船の脅威は現実的な問題ではなかったように思われ、それだけに斉昭の型破りな言動は、幕府や諸大名を悩ませた。

藩内の派閥抗争と斉昭の失脚

幕末の水戸藩は、派閥抗争に始まり、派閥抗争に終わったといって良い。
水戸藩では斉脩死去の際に、家斉の実子を迎えたかった門閥派が、斉昭の改革に反発した寺院勢力と結び、幕府に斉昭の失脚を働きかけた。
幕府は、斉昭に蟄居を命じ、家督を嫡子・徳川慶篤に譲らせることで斉昭の藩政改革を終らせ、独断を治めた。

幕政に関わる

斉昭が失脚してからの水戸藩は、門閥派が実権を握るが、斉昭を支持する改革派の運動により蟄居が解かれ、斉昭の藩政復帰が認められた。
この頃は、外国船の来航が頻繁になっていたが、嘉永6年(1853年)の黒船来航でいよいよ日本は動乱に向かって動き出すことになる。
ここでも斉昭は、おもむろに事を成さず、早急に建議書と具体策を幕府に述べ、老中・阿部正弘から海防参与に任じられた。
もともと御三家は、幕政には関与しないのが不文律であったが、阿部得意の抜擢人事により任命されたものである。



幕政で具体的な立場を得た斉昭であったが、再び黒船が来航し日米和親条約の締結に至ると、激怒して海防参与を辞任してしまう。
続いて同年、軍制改革参与に任命されたが、阿部の急死の後に辞任した。
以前は、斉昭の言動に悩んだ幕府だったが、将軍や老中までもが頼りにして、斉昭の力が必要とされる世の中に変わったのだろう。

将軍継嗣問題と条約調印

阿部は、常に調整型の政治家であった。
諸大名に外交に関する意見を求め、外様雄藩や朝廷に幕政への介入を許す結果となったが、それを否定し、幕政を阿部以前の政治に戻そうとしたのが井伊直弼(いい-なおすけ)である。
斉昭と直弼は激しく対立し、十三代将軍・徳川家定の後継を巡った将軍継嗣問題は、それぞれの政策の実現を目指し、斉昭が実子の一橋慶喜(徳川慶喜)を擁立し、直弼が紀州藩主・徳川慶福(徳川家茂)を擁立した。
しかし直弼が大老になると、慶福を後継者として、さらに日米修好通商条約を調印したことで、斉昭を事実上の敗北へと追いやった。
この件をめぐり、斉昭は慶喜らとともに不時登城の上で直弼に詰問したが、老獪な直弼を負かすほどの力はもうなく、逆にその罪を問われ蟄居を命じられた。
慶喜を擁立し、幕政までも改革しようとした斉昭は、結局水戸藩や幕府のなかで保守派に足元をすくわれた形である。

水戸浪士の大老襲撃

孝明天皇は、水戸藩に大きな期待をかけており、幕府と水戸藩に攘夷を促す内容の勅書を下賜したが、これを戊午の密勅という。
勅書の降下は、幕府を差し置き幕政を牛耳ろうとする斉昭の謀略として、直弼は水戸藩士へ容赦ない弾圧を始めた。



安政の大獄(あんせいのたいごく)と呼ばれるこの弾圧は、水戸藩士の他にも多くの死者を出し、斉昭も水戸での永蟄居を命じられ、歴史から姿を消した。
幕府は、水戸藩に勅書を返納するよう求め、返納が決定されるも一部の反対派が脱藩し江戸へ向かい、直弼を襲撃したのが桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)である。

派閥抗争の激化で疲弊する水戸藩

水戸藩は、斉昭が藩主である時も、全く一枚岩になってはいなかった。
その結果、斉昭を失った後は派閥抗争に明け暮れることになる。
桜田門外の変以降の水戸藩は、諸藩の尊皇攘夷志士の期待を背負い、脱藩浪士が東禅寺事件や坂下門外の変を起こしている。
水戸藩が、こういった過激な行動を繰り返すなか、薩摩藩が薩英戦争を経験し、長州藩が下関戦争を経験したことを期に、討幕や近代化へと舵を切る一方で水戸藩は、攘夷の困難を知ることもなく幕末の歴史から取り残される。
徳川一門の御三家であるのに、先進的過ぎる理論を持ってしまったため、幕末での立場を自ら複雑にした。
このように過激な行動を繰り返した改革派は天狗党と呼ばれ、今度は横浜港鎖港を要求し筑波山で挙兵したことが発端の天狗党の乱は、水戸藩内外を混乱させた。



水戸城内においては、門閥派が諸生党を結成し天狗党の排除を開始し、藩内の抗争は泥沼化する。
もはや、政治的実利は何も得られない、意地の張り合いであったともいえ、両者の争いは幕府崩壊後も続いた。
幕末の水戸藩は、尊皇攘夷のような革新的な思想を持ち、行動力も生み出した。
その一方で、水戸藩は幕府の臣下であると、あくまでも信じ続けた力が存在したのも水戸藩であった。
徳川斉昭、万延元年(1860年)8月15日、水戸で死去、享年61歳。

(寄稿)浅原

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