長宗我部親貞(吉良親貞)とは

長宗我部親貞(吉良親貞)

吉良親貞(きら-ちかさだ)は、戦国時代の1541年に生まれた長宗我部国親の次男で母は不詳です。
永禄6年(1563年)に兄の命を受けて、滅亡していた土佐の豪族・吉良氏の婿養子となって、名跡を継ぎました。
本山茂辰が朝倉城に退いたあとの、浦戸城の城主も任されました。
その後、蓮池城主・一条兼定との戦いでは数々の戦功を挙げ、兄・長曽我部元親に代わって総大将を務めることもあったと言います。
天正3年(1575年)に一条兼定が再起を図った際に、長宗我部氏は窮地に陥っていますが、長曽我部親貞が四万十川の戦いで一条勢に大勝して、長曽我部家を救いました。
その後、土佐・中村城も任されています。



このように多大な貢献をした吉良親貞でしたが、四国統一もこれからと言う天正4年(1576年)に病死。享年35。
吉良親貞が生きていれば、長曽我部元親の四国平定は5年は早かったであろうと言われています。

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