斎藤道三とは 生涯をわかりやすく簡潔に2分で

斎藤道三

斎藤道三(さいとう-どうさん)は、松波庄五郎(松波基宗)の子として1494年に生まれました。

父・松波庄五郎は、北面武士を務めていたようですが浪人したようで、母は油問屋・奈良屋又兵衛の娘ともされます。
父は油売りの行商として成功し、美濃守護代・長井長弘の家臣に抜擢されます。
そして、長井氏の家臣である西村氏が断絶したあと、家名をついで西村勘九郎正利と称しました。
土岐守護の次男・土岐頼芸の信頼も得ると、川手城(革手城)にいた土岐頼芸の兄・土岐政頼(土岐頼武)を急襲して追放もしました。
1530年、土岐頼芸が美濃守護となると、権力を得た長井長弘を、土岐政頼(土岐頼武)に内通した疑いで殺害し、父・西村勘九郎正利(松波庄五郎)が長井家を相続して長井新九郎規秀と称しました。
ここまでの経緯を、かつては斎藤道三が行ったとされてきましたが、現在は、父が下剋上でのし上がったきたと考えられています。



その父も、1534年頃に死去したようで、以後、子である長井規秀(斎藤道三)の名が、書状や文献などで見受けられるようになります。
それより先だって1532年には、明智光秀の叔母にあたる小見の方を正室に迎えています。

1535年には、土岐頼芸と土岐頼純が争うなど、美濃は内紛状態で、そんな中、1538年に美濃守護代・斎藤利良が病死すると、長井規秀がその家督を継いで、斎藤利政(斎藤新九郎利政)と名乗りました。

1539年、本拠地の稲葉山城を大改築しています。
1541年、斎藤利政(斎藤道三)は、土岐頼芸の弟・土岐頼満を毒殺したことが露見して、窮地にも立ちます。
しかし、挽回し、1542年、土岐頼芸の美濃・大桑城を攻めると、土岐頼芸と子の土岐頼次を尾張の織田信秀を頼って逃れ、斎藤利政(斎藤道三)が美濃を乗っ取りました。

1547年、織田信秀が美濃に侵攻し、稲葉山城を攻撃しましたが、斎藤利政は籠城して勝利しています。
その後、織田信秀と同盟を結ぶと、1548年、娘の帰蝶が織田信長に嫁ぎました。

そして、斎藤利政に従わない、相羽城の長屋景興、揖斐城の揖斐光親らを攻撃し、揖斐北方城の土岐頼芸を再度追放すると、美濃を統一しています。

しかし、美濃の武将らは、いまだ、美濃を乗っ取った斎藤利政らを良く思わない者が多かったようで、反発を避けるため、1554年、斎藤利政は
常在寺で剃髪して「斎藤道三」と号し、家督を子の斎藤義龍に譲りました。
そして、斎藤道三は鷺山城にて隠居しています。

ところが、側室・深芳野を母に持つ斎藤義龍は、父を嫌うようになりれ、1555年、弟らを殺害すると、斎藤道三に対して兵を挙げました。



国盗りの経緯から、斎藤道三に味方する家臣は明智家くらいで、1556年、17500の斎藤義龍は攻撃を開始し、2500の斎藤道三と長良川の戦いとなりました。
織田信長は、正室・濃姫の父を助けようと援軍を出しましたが間に合わず、斎藤道三は討死しました。享年63。

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