長連龍 能登・畠山家の滅亡で一族が誅殺されても戦国を生き抜いた勇将

長連龍

長連龍(ちょう-つらたつ)は、穴水城主である長続連(ちょう-つぐつら)の3男として、戦国時代の1546年に生まれました。
母は不詳ですが一族の出である長英連の娘の可能性があります。
長連龍は3男だったことからか、臨済宗の熊木・定蓮寺にて僧侶となり、宗顒と称し、のち孝恩寺の住職になりました。
ただし、僧侶でありながらも、長氏の一族「孝恩寺」として、父・長続連に従い出陣もしています。

長氏は、七尾城主・畠山義続に仕えた重臣で、畠山七人衆のひとりになって実力を行使していました。
しかし、同じ畠山七人衆の遊佐氏・温井氏の台頭もあり、織田勢がだんだん能登にも届こうとしてくると、長氏は織田信長に接近するようになります。


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温井総貞が畠山義続に殺害されると出奔していた温井景隆と三宅長盛が、畠山義隆によって1569年に帰参が許されます。
そのとき、温井氏の旧領を与えられていた八代俊盛の所領3千貫は返上することに不満を持った、能登・湯山城(森寺城)の八代家の親子は、椎名氏の支援を受けて3000にて挙兵します。
そして、鶏塚の戦いとなりましたが、長連龍の孝恩寺・遊佐続光・温井景隆・松波常重らは4000に八代勢を破り自害に追い込みました。
このように、能登・畠山氏の家中でも、長氏はかなりの権力を有します。
長続連、遊佐続光らは、畠山義綱の嫡男・畠山義慶(はたけやま-よしのり)を当主に据えて傀儡政権を作っていました。

そして、1574年に、遊佐続光と温井景隆らが畠山義慶を暗殺したようで、弟の畠山義隆が能登・畠山氏の第11代当主になっています。
しかし、その畠山義慶(はたけやま-よしのり)も2年後の1576年に急死しました。
そのため、まだ幼少の畠山春王丸が擁立されますが、実権は重臣の長続連が握っていました。
そんな状況に、上杉謙信が介入しますが、筆頭重臣の長続連らは拒否したため、1577年、上杉謙信が能登に侵攻し、七尾城が包囲されました。
この七尾城の戦では、長続連、温井景隆、遊佐続光らは七尾城に籠城しています。
長続連の嫡男・長綱連など一族も籠っています。
七尾城は堅固な城でしたので上杉勢は落とせなかった代わりに、能登半島北部にある富木城、熊木城、穴水城などを落城させました。
穴水城には、上杉家の長沢筑前・白小田善兵衛が守将として置かれています。

穴水

そして、上杉謙信が一度退却すると、その上杉勢が守る穴水城を長氏らは攻撃しようで、能登・甲山城にいた上杉勢の平子和泉、轡田肥後・唐人式部・板倉伝右衛門らが穴水城の救援に向かったとあります。
このとき、長連龍は、法衣姿で能登水軍を率い、乙ヶ崎合戦で大勝して上杉勢の首級70を取る大活躍を見せ武勇を馳せました。

そのあと、再び上杉謙信が能登に現れため、長連龍は穴水城を捨てて、再度、七尾城に入っています。
しかし、七尾城では疫病が発生し、畠山氏の当主になっていた5歳の畠山春王丸も城内にて病死します。
この窮地に、織田信長へ援軍要請することになり、その使者に抜擢されたのが、長連龍でした。


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長連龍は秘かに海路、安土城を目指したようです。
そして、織田信長に謁見すると、柴田勝家を総大将にした軍勢が派遣されています。

七尾城では、援軍を待ち望むところでしたが落城寸前となり、上杉謙信は上条政繁・長尾与次郎・島津淡路を使者として送ると、遊佐続光、温井景隆、三宅長盛らに内応を呼びけて、城内にて反乱を起こさせました。
この寝返りにて、長続連と子の長綱連、長綱連の弟・長則直、長綱連の子・竹松丸と弥九郎など長氏の一族14の将はみな殺しとなり、七尾城は上杉勢が占領しました。
そのため、一族の中でひとり、長連龍だけが生き残った形となります。

長連龍が能登に戻ったときには、すでに長氏一族は処刑されたあとで、そのまま織田家に仕えると復讐の機会を狙います。

ちょっと、変わった名前の長連龍ですが、幼名は長萬松、初名は長好連(長九郎左衛門)です。
その後、3男だったことから仏門に出されたようで、定蓮寺の僧侶となって宗顒と称しました。
一族の危機に武将としても出陣し、織田家に仕えたあと1580年に、長連龍と改名したと言う事になります。


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1578年、長連龍は残党などを集めると500にて穴水城を急襲し、先祖伝来の地を奪い返しています。
そして、織田家に臣従していた神保氏張の娘・新を妻に迎えて協力体制を取り、裏切り者の遊佐続光や、七尾城に入っていた上杉家の鯵坂長実に対抗しました。
その後、上杉謙信が死去すると、遊佐続光・遊佐盛光・温井景隆らが鯵坂長実を七尾城から追放して、城ごと織田家に降伏し、織田家から菅谷長頼が入っています。

このあたり諸説ありますが、織田信長は一度上杉家についた遊佐続光・温井景隆を許さなかったようで、長連龍は、柴田勝家・前田利家佐久間盛政らと遊佐らを攻めて滅亡させました。
櫛北村で捕えた遊佐続光・遊佐盛光の首は、長連龍が自ら斬り落としたとも言われています。

こうして、能登が前田利家に与えられて、小丸山城が整備されると、長連龍は能登・末森城土肥親真(どい-ちかざね)らと前田家の与力となっています。
そして、魚津城の戦いにも参じて、上杉勢に属していた一族の長景連を撃破もしましたが、明智光秀本能寺の変を起こします。
温井景隆・三宅長盛らは再起を図って能登の石動山に拠りましたが、前田利家・佐久間盛政らによって温井氏は滅亡しました。

以後、長連龍は、前田利家の重臣となって、31000石と言う、前田家の中でも、いわば独立勢力的な存在になりました。
1583年、賤ケ岳の戦いでは、撤退する前田勢の殿(しんがり)を務め、長連龍の家臣は約30名が討死しましたが、見事に任務を果たしています。
また、佐々成政が打開を目指して攻めた能登・末森城の戦いでは、危険を顧みず駆けつけたことを評価されて、前田利家から称賛を受けています。
このように、前田家にて信頼を得た長連龍は、高山右近と共に、前田利家が役に立つ武将として遺書にもしたためました。

加賀120万石の前田家を支えた重臣として「加賀八家」がありますが、譜代の家臣である奥村永福、村井長頼や前田一族を抑えて、長家は2番目の3万3000石として穴水城を任されました。
嫡男・長好連は、前田利家の8娘・福(高源院)を正室に迎えています。

豊臣秀吉小田原攻め、朝鮮出兵や伏見城築城、1599年に前田利家が死去して、前田利長の代になると、丹羽長重との大聖寺城の戦い、浅井畷の戦いにも参じています。


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その後、一度、田鶴浜の館に隠居しますが、長好連の死を受けて当主に復帰した長連龍は、1615年、高齢を押して、大坂の陣にも加わりました。
1619年2月3日、能登の田鶴浜(七尾市)にて死去。享年74。

金沢城下で現在武家屋敷が残る「長町武家屋敷」界隈は、長氏の屋敷があったことから、長町となった場所です。

穴水城 能登にある長氏の本拠地
正院川尻城 長景連と能登最果ての栄華
奥村永福 前田家を一度出奔するも重臣として支える
能登・崎山城 勇猛な三宅宗隆
魚津城 上杉勢13人の武将が自刃した魚津城の戦い
七尾城 畠山義統と畠山義総 上杉謙信との七尾城の戦い
小丸山城 前田利家とんとん拍子の出世城
上杉謙信の解説~越後の龍と呼ばれた長尾景虎・上杉景虎の人物像に迫る
金沢「長町武家屋敷」散策 長連龍の屋敷があった場所

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