松平信光をわかりやすく解説~大きく躍進した岩津松平家の祖「徳川家康の先祖」

松平信光

松平信光とは

松平信光(まつだいら のぶみつ) は、室町時代中期の武将で誕生年は1404年と推測される。
父は松平氏の初代・松平親氏とする場合と、2代当主・松平泰親とするケースがあり定かではない。
母は松平信重の娘であり、松平信光は三河・岩津城(トップ写真)を築いて、三河・松平氏の3代目を継承した。
やがて松平氏は南に6kmいった三河・岡崎城を本拠とするようになる。

戦国時代に入る頃、松平信光は室町幕府の政所執事・伊勢貞親に仕えたとされる。
正室は一色氏の娘・真浄院殿。

1458年、駿河の守護・今川氏の一族である関口満興が城主である岩略寺城を攻略すると、11男・松平親則に与えている。
その後、岩略寺城の北側の麓で東海道沿いになる、長沢直幸(関口満興の弟)がいた三河・長沢城を居城にしているため。長沢松平氏とも呼ばれる。
1461年、保久城の山下庄左衛門を攻撃した。


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1465年5月、額田郡の井口砦で丸山中務入道の父子、大場二郎左衛門、簗田左京亮らが反幕府・反守護の一揆が発生。
最初、牧野出羽守、西郷六郎兵衛が討伐したが大半が逃げたようで、三河守護である細川成之からの要請を受けて、伊勢貞親の軍勢として額田郡一揆を鎮圧した。
恩賞として、室町幕府8代将軍・足利義政のより深溝城などの所領を与えられている。

応仁の乱になると、三河守護・細川成之と共に、三河での復権を目論んだ一色氏を撃破した。
また、畠山加賀守が守るた安祥城を、踊りながら奇襲攻撃して奪取したほか、5男・松平光重を岡崎城主・西郷頼嗣の娘婿にして岡崎城も手に入れた。

松平信光は、三河国の約30%へ勢力を伸ばして松平氏の基礎を築いた。
1488年?に松平信光は岩津城にて死去。
1404年生まれと没年が正しければ、享年85ということにになる。
家督は3男・松平親忠が松平氏4代(安祥松平家2代)となって安祥城に入った。


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娘の一人は戸田宗光の妻となっているが、子供は全部で48人いたとされる。(とても大変だ)
その結果、竹谷松平家、安祥松平家(松平宗家)、形原松平家、岡崎松平家(大草松平家)、五井松平家(深溝松平家)、能見松平家、丸根松平家、牧内松平家、長沢松平家など多くの松平一族が出た。

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