伊勢貞興 明智光秀を支えたエリート幕臣

伊勢貞興

明智光秀には伊勢貞興(いせ-さだおき)という家臣がいました。共に幕臣だったこともあり、気が合ったのか最後まで光秀の側近くで仕えていましたが、実のところあまり知られた人物ではありません。

そこで今回は、貞興はどのような生い立ちだったのかに注目し、生涯を振り返ってみたいと思います。

伊勢氏は政所執事を長年務めた名家

貞興のことを述べる前に伊勢氏のことを紹介します。伊勢氏は室町幕府3代将軍である足利義満のころから幕府の財政と領地に関する訴訟を取り締まる政所のトップ(執事)を務めてきました

戦国時代に入ると室町幕府の権威は失墜し、13代将軍足利義輝三好長慶によって追放されると、貞興の祖父である伊勢貞孝(いせ-さだおき)は長慶と共に京都に残ります。しかし義輝と長慶が和睦し、京都を攻める六角義賢(ろっかく-よしかた)と戦っていた際に京都で政務を行っていたことが原因で失脚してしまいます。


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貞孝は室町幕府に対して反旗を翻しますが、長慶の家臣、松永久秀によって貞興の父、伊勢貞良(いせ-さだよし)と共に永禄5年(1562)に討ち取られてしまいました。

伊勢氏の再興と光秀との出会い

そんな状況下の中で生まれた貞興は、生後間もなくして兄の伊勢貞為(いせ-さだため)と若狭国(現在の福井県)へ逃れます。永禄8年(1565)、永禄の変で義輝が暗殺され足利義栄(あしかが-よしひで)が14代将軍に就任すると貞為は義栄に仕え、没落した伊勢氏を再興させました。

しかし永禄11年(1568)、足利義昭が15代将軍となると貞為は義栄に仕えていたこともあり、貞興が伊勢氏の当主として義昭に仕えます。そして、元亀2年(1570)には10歳にも満たない年齢で政所役に任命されました。

政所の復職に成功した貞興でしたが、天正元年(1573)に義昭が織田信長によって追放されると明智光秀に仕えます。

光秀から重宝された貞興

貞興は若くして武勇、知略、軍事に優れていたので、光秀からは信頼されていました。また、有職故実(公家や武家たちが行っていた行事や習慣などのこと)の研究家であった貞興は自身の家流である伊勢流の武家故実『伊勢貞興返答書』を作成していました。

光秀の家臣として重要な戦に参陣し、斎藤利三と並び立つ重臣として名を馳せます。明智家での地位を確立後、天正10年(1582)には本能寺の変が起こりました。

本能寺の変では、2000もの精鋭たちを率いて織田信忠(信長の嫡男)が守る二条城を攻め寄せます。貞興も槍を振るって奮戦し、信忠を自害にまで追い込みました。

そして、同年に勃発した山崎の戦いにも光秀と共に戦います。貞興は2000の兵数で織田信孝(信長の三男)軍の中川清秀が率いる3500人の舞台と激突しました。貞興の兵は精鋭揃いだったので清秀隊を圧倒しますが、兵力差を覆せず敗れてしまいました。


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そして光秀も撤退となり、貞興は光秀を守るために残った兵を率いて奮戦しますが、討死。まだ21歳であった貞興の若き命は山崎の地にて散ることになりました。

寄稿(拾丸)

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